アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史とは? わかりやすく解説

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アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 13:52 UTC 版)

アルバニア・ヴェネタ」の記事における「アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史」の解説

ダルマチア出身歴史家ルイージ・パウルッチによると、ヴェネツィア共和国時代の数世紀アルバニア・ヴェネタ住民コトル湾内のカッターロなど都市部主としてヴェネツィア語話していた(人口の約66%)。 しかし18世紀前半では、内陸へ行くと人口半分以上セルビア・クロアチア語話していた。パウルッチは、アルバニアとの国境地帯にすらアルバニア語話者大きな共同体があったと書いている。ドゥルチーニョは人口半分アルバニア人で、1/4がダルマチア・イタリア人、1/4がスラヴ語話していた。 カッターロ一帯フランス支配下にあった頃、学校イタリア語使われていた。アルバニア・ヴェネタナポレオンのイタリア王国領だったからである。 スロヴェニア人のマルコ・トログルリは、自身随筆で「フランス学校制度フランス領ダルマチア採用された」と記したフランス任命したダルマチア知事ヴィンチェンツォ・ダンドロは、地元ダルマチア教育庁出身士官バルトロメオ・ベニンカーサ同様1807年5月に県の公教育計画発表した。そこでは、ナポレオンのイタリア王国中に教育制度一致させなければならない教育者イタリア人あるべきだ、としていた。 19世紀歴史家スカリオーニ・マルツィオによると、イタリアオーストリア帝国からの独立戦争オーストリア領南ダルマチアでのイタリア語ヴェネツィア語話者社会対す悩みの種生み出してしまった。 アルバニア人は、ウルチニドゥラス周辺アルバニア・ヴェネタ南部住んでいた。コトル湾周辺スラヴ人ラテン系住民占め、彼らはほとんどがカトリック教徒であった1880年にカッターロで行われたオーストリア調査結果民族的にイタリア人だと自称する者はたった930人だった(2,910人の人口のうちたった32%)。 さらに、1910年オーストリア帝国調査では(ディエゴ・デ・カストロの著作による)、カッターロのイタリア人人口はわずか13.6%に減少していた.。 現在、モンテネグロには500人のダルマチア・イタリア人がおり、主としてコトルペラスト地域にいる。ダルマチアでのイタリア語話者消滅は、第二次世界大戦後決定的なものとなった言語学者マッテオ・バルトーリは、「ナポレオン戦争中のダルマチア人口33%はダルマチア・イタリア人であった一方で現在はクロアチアダルマチアにわずか300人、モンテネグロ沿岸500人のダルマチア・イタリア人がいるだけである」と著書記している。

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