アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史
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「アルバニア・ヴェネタ」の記事における「アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史」の解説
ダルマチア出身の歴史家ルイージ・パウルッチによると、ヴェネツィア共和国時代の数世紀でアルバニア・ヴェネタ住民はコトル湾内のカッターロなど都市部で主としてヴェネツィア語を話していた(人口の約66%)。 しかし18世紀前半では、内陸へ行くと人口の半分以上がセルビア・クロアチア語を話していた。パウルッチは、アルバニアとの国境地帯にすらアルバニア語話者の大きな共同体があったと書いている。ドゥルチーニョは人口の半分がアルバニア人で、1/4がダルマチア・イタリア人、1/4がスラヴ語を話していた。 カッターロ一帯がフランス支配下にあった頃、学校はイタリア語が使われていた。アルバニア・ヴェネタはナポレオンのイタリア王国領だったからである。 スロヴェニア人のマルコ・トログルリは、自身の随筆で「フランスの学校制度がフランス領ダルマチアで採用された」と記した。フランスが任命したダルマチア知事ヴィンチェンツォ・ダンドロは、地元ダルマチアの教育庁出身の士官バルトロメオ・ベニンカーサ同様1807年5月に県の公教育の計画を発表した。そこでは、ナポレオンのイタリア王国中に教育制度を一致させなければならない。教育者はイタリア人であるべきだ、としていた。 19世紀、歴史家スカリオーニ・マルツィオによると、イタリアのオーストリア帝国からの独立戦争がオーストリア領南ダルマチアでのイタリア語(ヴェネツィア語)話者社会に対する悩みの種を生み出してしまった。 アルバニア人は、ウルチニとドゥラス周辺のアルバニア・ヴェネタ南部に住んでいた。コトル湾周辺はスラヴ人とラテン系住民が占め、彼らはほとんどがカトリック教徒であった。 1880年にカッターロで行われたオーストリアの調査の結果、民族的にイタリア人だと自称する者はたった930人だった(2,910人の人口のうちたった32%)。 さらに、1910年のオーストリア帝国の調査では(ディエゴ・デ・カストロの著作による)、カッターロのイタリア人人口はわずか13.6%に減少していた.。 現在、モンテネグロには500人のダルマチア・イタリア人がおり、主としてコトルとペラスト地域にいる。ダルマチアでのイタリア語話者の消滅は、第二次世界大戦後に決定的なものとなった。言語学者マッテオ・バルトーリは、「ナポレオン戦争中のダルマチア人口の33%はダルマチア・イタリア人であった。一方で現在はクロアチア領ダルマチアにわずか300人、モンテネグロ沿岸に500人のダルマチア・イタリア人がいるだけである」と著書に記している。
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