アルバニアの独立とバルカン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)
「コソボの歴史」の記事における「アルバニアの独立とバルカン戦争」の解説
20世紀諸島の青年トルコ人の要求は、アルバニア人たちからも強い支持を集めた。アルバニア人たちは帝国内での自らの民族的地位の向上、とくに公的な場や教育でのアルバニア語の使用を認めるよう求めていた。1908年には、2万人のアルバニア人農民が、外国による侵略を阻止すべく武装する一方、その指導者バイラム・ツリ(Bajram Curri)やイサ・ボレティニ(Isa Boletini)らは皇帝に対して憲法の制定と議会の設置を求めた。しかし、青年トルコ人革命の成功は、アルバニア人に対して大きく寄与するものではなかった。こうしたことから、1909年2月にはコソボでアルバニア人による暴動が発生している。同じ年に帝国の政治が一部の寡頭政治家に牛耳られるようになると、状況はいっそう悪化した。1910年4月には、イドリズ・セフェリ(Idriz Seferi)とイサ・ボレティニは反乱を主導し、オスマン帝国の軍にも多数の死傷者を出したものの、最終的には鎮圧された。
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