アルバニアの反乱と飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
「ペーローズ1世」の記事における「アルバニアの反乱と飢饉」の解説
ペーローズ1世とホルミズド3世の後継者争いの最中にコーカサス地方のアルサケス朝(英語版)アルバニア王国の王であるヴァチェー2世(英語版)(在位:440年 - 462年)がサーサーン朝の混乱に乗じて独立を宣言した。ヴァチェー2世はフン族にカスピ海沿いのデルベントの通過を認め、フン族の支援を受けてペルシア軍を攻撃した。これに対しペーローズ1世もフン族にコーカサス山脈を越えるダリアル峠(英語版)の通過を許すことで応じ、その後これらのフン族はアルバニアを荒らし回った。結局、双方の王は協定の交渉を始めた。ヴァチェー2世はペーローズ1世の姉妹であった母親と自分の娘(両者ともキリスト教徒であった)をペーローズ1世へ引き渡し、一方で元々は父親から相続資産として分け与えられていたサーサーン朝出身者からなる1,000世帯の家族を手に入れるという条件で両者は合意に達した。ヴァチェー2世は462年に死去し、その後アルバニアはペーローズ1世の弟で後継者のバラーシュ(在位:484年 - 488年)によって485年にヴァチャガン3世(英語版)(在位:485年 - 510年)が王位に据えられるまで王が不在であった。また、ペーローズ1世は451年に起こったアルメニア人の反乱の影響で父親のヤズデギルド2世によって投獄されていたアルメニア人貴族の一部を釈放した。 その一方で461年頃にペルシアは深刻な干ばつに見舞われ、恐らく467年まで続いた大飢饉を引き起こした。この干ばつによってティグリス川の水位が著しく低下し、泉、井戸、灌漑設備の水が干上がり、家畜が死に絶えた。飢饉が帝国内に蔓延し、農村地帯では餓死者が発生するようになった。ペーローズ1世は一時的に税の徴収を取り止め、すべての貯蔵庫を解放して民衆へ食料を配給させ、最悪の事態を回避するように努めた。ただし、この大飢饉に関する記録は、危機の最中の464年にペーローズ1世がキダーラ朝に対して軍事作戦を準備したという事実(後述)を考慮すると、いくぶん誇張されている可能性がある。
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