アルバニア王国
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アルバニア王国(あるばにあおうこく)と呼ばれる国家は以下の通りである。
- アルバニア王国 (中世) - 13世紀、シチリア王国やナポリ王国の支配者であるカルロ1世、カルロ2世はアルバニア王を称した。その後も時の権力者がアルバニア王、もしくはアルバニア公を称し、その地を支配した。中世最後の王国としては、オスマン帝国と激しく争い、1443年から1480年まで独立を維持したスカンデルベクの王国がある。
- アルバニア公国 - 1914年にオスマン帝国から独立した国家。君主は公であったが、国内向けには国王(Mbret)を称した。第一次世界大戦の後、共和制へ移行。
- アルバニア王国 (1928年-1939年) - 1925年、アルバニア共和国 (1925年-1928年)の大統領アフメト・ベイ・ゾグーが国王に即位して誕生した国家。第二次世界大戦の後、共産主義国(アルバニア人民共和国)となる。
カフカスのアルバニア
- カフカス・アルバニア王国 - カフカス山脈のアゼルバイジャン付近に、古代存在した国家。
アルバニア王国
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詳細は「アルバニア王国 (近代)」を参照 その後ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアは君主政(アルバニア王国)となった。 1939年4月7日未明、上陸したイタリア軍が簡単な戦闘の後全土に進駐し、アルバニアは併合された。国王ゾグーは王妃と共に亡命し、イタリアとの同君連合という形でアルバニア国王にはイタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が即位した。国王は親伊派の傀儡政権を組織させたが、これに対して共産主義勢力、旧国王派、民族戦線(バリ・コンバタール)などが抵抗運動を展開した。1941年、エンヴェル・ホッジャを書記長としてアルバニア共産党が成立すると、反ファシズム勢力をまとめた民族解放戦線を組織し、ユーゴのパルチザンと結んだ抵抗運動が進められた。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、今度はドイツ軍によって占領されたが、引き続き抵抗運動を継続させ、1944年11月に首都ティラナの解放に成功した。
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