イタリアのアルバニア侵攻
アルバニア併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「アルバニア併合」の解説
1939年3月25日、ミュンヘン会談でのチェコスロバキア解体に国際社会の弱腰を見たムッソリーニはアルバニアの併合を可能と考え、ゾグーへ最後通牒を突きつけて宣戦布告した。ロンドン条約後にオスマン帝国から独立を達成したアルバニア公国は共和制移行を経て、アフメト・ベイ・ゾグー(ゾグー1世)による独裁が行われていた。アルバニア王を自称するゾグーはムッソリーニの協力を頼りに独裁体制を維持しており、実質的にイタリアの傀儡政権となっていた。4月7日、アルフレド・グッツォーニ(イタリア語版)大将の部隊がアドリア海を越えてアルバニアに上陸、4月10日までに首都ティラナを占領して戦争は終結し、ゾグーはイギリスに逃亡した。4月12日、アルバニア議会はゾグーの廃位とイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にアルバニア王戴冠を請願する決議を行った。4月17日、ローマのクィンナーレ宮殿で戴冠式が行われ、イタリア王国とアルバニア王国はサヴォイア家の同君連合となった。 イタリア本国からアルバニア総督が派遣されるなど扱いは植民地に対する内容に近く、アルバニア軍はイタリア王国軍の外国人師団として統合され、外務省職員はイタリア外務省のアルバニア大使館に吸収された。国家運営はアルバニア総督による統制の下、政治家タウフィック・セリム(英語版)がファシスト党を模して結党したアルバニアファシスト党(Partia Fashiste e Shqiperise)と、党武装組織のアルバニア民兵が担当した。
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