イタリアのアルバニア併合とギリシャ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:04 UTC 版)
「バルカン戦線」の記事における「イタリアのアルバニア併合とギリシャ侵攻」の解説
(未回収のイタリア)、(ガブリエレ・ダヌンツィオ) (イタリアのアルバニア併合) (イタリアの対仏参戦)も参照 イタリアはムッソリーニ率いるファシスト党政権の下で、国民を煽って自国内の政情不安を抑える方策として、19世紀の王国統一以来の課題である「未回収のイタリア」併合、そして東地中海一帯を自国の勢力圏下に置こうという「我らが海」構想を推し進めていた。1939年4月、イタリアは国王ゾグを追放してアルバニアを併合。ここを橋頭堡として、いまや消滅した宿敵オーストリア=ハンガリーの旧領(そしてファシスト党が継続性を主張するローマ帝国の旧領でもある)バルカン半島への進出を目論んでいた。しかしイタリアは1929年の世界恐慌以来経済が低迷しており(格下以下と思われていた)エチオピアへの侵攻を上回るような大きな戦争ができる状況ではなかった。このためファシズムの後輩であるナチス・ドイツとポーランド、フランス、イギリスの間で1939年9月に始まった第二次世界大戦にも、当初は介入しない方針を示していた。 ところが1940年5月、ドイツの奇襲でフランスがあっけなく崩壊すると状況が変わる。ヨーロッパ全域がドイツの勢力圏下になる可能性も出てきた今は、イタリアにとって地中海一帯で火事場泥棒を働く好機と映ったのである。こうしてイタリアは第二次世界大戦に参戦。フランスからサヴォア・ニースを奪還し、さらに1940年10月28日、アルバニアの南隣ギリシャへ侵攻を開始する。 ところがここで早くもイタリアの計算が狂う。格下と思われていたギリシャ軍の前にイタリア軍は惨敗。アルバニア領内まで逆侵攻される事態になってしまったのである。
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