「未回収のイタリア」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 20:34 UTC 版)
「ヴェネツィア・ジュリア」の記事における「「未回収のイタリア」」の解説
19世紀のイタリア統一運動の結果、1861年に建国されたイタリア王国は、さらにイタリア人が居住する全地域の統一を目指した(民族統一主義、イレデンティズム)。 1863年、ゴリツィア出身の言語学者グラツィアーディオ・アスコリは、ローマ帝国におけるヴェネツィア・ヒストリア地方 (it:Regio X Venetia et Histria) を地理的・文化的なまとまりから3つに分けた地域区分を提唱した。すなわち、 ヴェネツィア・エウガネア(Venezia Euganea) ヴェネツィア・トリデンティナ(Venezia Tridentina) ヴェネツィア・ジュリア(Venezia Giulia) であり、これが「ヴェネツィア・ジュリア」という地域名のはじまりとなる。 1866年、普墺戦争に連動してオーストリアとの戦争(第三次イタリア独立戦争)が行われた結果、イタリア王国はヴェネツィアを含むヴェネト州の「回収」に成功したが、イゾンツォ川流域や、トリエステを含むイストリア半島など、キュステンラント一帯はオーストリア領として残された。イタリアはこれらの地域を「未回収のイタリア」とし、領有を求め続けた。「ヴェネツィア・ジュリア」の名は、この地域のイタリアへの帰属を主張する名称として政治的な色彩を帯び、広く用いられるようになった。 第一次世界大戦において、イタリアは三国同盟に加わりながら当初は中立の立場をとっていたが、1915年4月にイギリス・フランスなどの協商国と「未回収」地域のイタリア編入を認める密約(ロンドン条約)が結ばれると、一転協商国側に立った。1915年5月にはオーストリアに宣戦してイゾンツォ川流域で戦闘を開始、以後2年半に及ぶ長い戦いを繰り広げた(イゾンツォの戦い参照)。1917年10月24日からカポレット(現在のスロベニア領コバリード)で行われたカポレットの戦いで、イタリア軍はオーストリア軍・ドイツ軍に大敗を喫して敗走、イゾンツォ川流域はオーストリアが奪回する。しかし、1918年10月23日からのヴィットリオ・ヴェネトの戦いによってオーストリア軍の戦線は崩壊。イタリア軍は追撃を行い、11月1日にトリエステに部隊が上陸して都市を占領した。11月3日、ヴィラ・ジュスティ休戦協定が締結されてイタリア戦線の決着が行われ、イタリア軍はロンドン条約に沿って「ヴェネツィア・ジュリア」を占領した。
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