未回収のイタリア問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
「パリ講和会議」の記事における「未回収のイタリア問題」の解説
「未回収のイタリア」も参照 イタリアは参戦当時の首相アントーニオ・サランドラ (en:Antonio Salandra)が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、イタリア統一運動で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「未回収のイタリア」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日にロンドン秘密条約を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア=ハンガリーからトレンティーノ=アルト・アディジェ、ヴェネツィア・ジュリア、北部ダルマチアと付近の島嶼、ヴァローナ(Valona, 現在のヴロラ)を獲得し、さらにアルバニアを保護国とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していたフィウーメに関してはクロアチア、セルビア、モンテネグロに与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラはガブリエーレ・ダンヌンツィオや新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。 イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国カルナーロ=イタリア執政府を建設した。
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