イタリア戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/02 13:13 UTC 版)
イタリア戦線(イタリアせんせん)
- イタリア戦線 (第一次世界大戦) - 第一次世界大戦中のイタリア王国(連合国)とオーストリア・ハンガリー帝国(中央同盟国)との戦い。
- イタリア戦線 (第二次世界大戦) - 第二次世界大戦中の枢軸国と連合国との戦い。
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イタリア戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 22:36 UTC 版)
「ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ」の記事における「イタリア戦線」の解説
ナポレオン・ボナパルトが司令官を務めるイタリア戦役においてサルデーニャ王国と戦い、セリュリエはその峻厳さと勇気を以って讃えられた。モンドヴィの戦い(1796年4月21日)、ロナートの戦い(1795年11月23日)、ラ・ファヴィリートの戦い(1797年1月16日)で活躍。1797年1月14日に行われたマントヴァ包囲戦で名を上げた。ボナパルトは、その清廉・忠実で策を弄したりできない人柄を高く評価し、1797年6月には敵から奪った軍旗を総裁政府に届ける任務を与えている。 カンポ・フォルミオ条約によって、ヴェネツィア共和国はほぼ完全にオーストリアの支配下に置かれることとなった。1797年10月18日にヴェネチア総督に任命されたセリュリエは、食料・弾薬・武器・美術品を運び出す命令を受けた。 エジプト遠征の間は、イタリア方面軍に所属。シェレルの指揮の下でパストレンゴの戦い(1799年3月26日)で活躍。ルッカを占領するが、ヴェローナの戦いに敗北。4月28日のヴェルデリオの戦いでは圧倒的に優勢な敵軍の前に降伏しなくてはならなかった。アレクサンドル・スヴォーロフの口利きにより釈放され、フランス本国へ帰国した。
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