中部イタリア防衛戦とは? わかりやすく解説

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中部イタリア防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:57 UTC 版)

イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「中部イタリア防衛戦」の解説

1944年5月カイザー線が突破され、6月4日イタリア首都ローマ陥落したが、ドイツ軍イタリア中部に「ヴィテルボ線」「トラジメーノ線」「アルノ線」「ゴシック線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗続けた。しかし、アルノ線まで連合軍突破許し8月11日フィレンツェ陥落した。だが、連合軍南フランス上陸作戦8月15日)のため一時攻撃中止し9月以降ゴシック線で両軍にらみ合い続いた

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中部イタリア防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 08:02 UTC 版)

第508重戦車大隊」の記事における「中部イタリア防衛戦」の解説

トスカーナ地方への退却中に13両を喪失大半爆破処分)して戦車保有数を10両まで減らしたが、6月14日から18日エンポリポッジボンシ新戦車27両を受領した以後8月下旬まで前線広域配置され活動行ったこの期間に戦車9両を失ったが、この内の2両はワイン蔵天井踏み抜いたため爆破処分されたものであるまた、7月末に第2中隊残存戦車第3小隊移管してクレヴァルコーレ移動9月上旬には戦車受領するべくブレンナー峠越えてドイツ・パーダーボルンへと向かった連合軍8月下旬に「ゴシック・ライン」(イタリア中部-北部隔てアペニン山脈築かれ防衛線)まで到達したが、戦線はここで長期膠着状態となる。 9月上旬、第1中隊フィレンツェからアペニン山脈越えてボローニャ抜けアドリア海側のチェゼーナ・サンマリノへ布陣した。一方第3中隊補給部隊フィレンツェからヴィアレッジョまで西進ティレニア海沿岸から迂回して9月末にチェゼーナ到達10月1日大隊は第76装甲軍団配属された。 10月20日重爆運搬車アイゼナハ鉄道移送11月30日に元第313無線操縦戦車中隊員は第300戦車大隊復帰した1945年1月1日ファエンツァ交戦3日から4日にソラローラ南部戦闘参加この後戦車による砲兵任務行い2月12日残存ティーガー15両とベルゲパンター戦車回収車1両を第504重戦車大隊引渡しオーストリア南部フィラッハ移動した

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