中部イタリア防衛戦
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「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「中部イタリア防衛戦」の解説
1944年5月、カイザー線が突破され、6月4日イタリア首都ローマが陥落したが、ドイツ軍はイタリア中部に「ヴィテルボ線」「トラジメーノ線」「アルノ線」「ゴシック線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。しかし、アルノ線まで連合軍の突破を許し、8月11日フィレンツェが陥落した。だが、連合軍は南フランス上陸作戦(8月15日)のため一時攻撃を中止し、9月以降ゴシック線で両軍のにらみ合いが続いた。
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中部イタリア防衛戦
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「第508重戦車大隊」の記事における「中部イタリア防衛戦」の解説
トスカーナ地方への退却中に13両を喪失(大半が爆破処分)して戦車の保有数を10両まで減らしたが、6月14日から18日にエンポリとポッジボンシで新戦車27両を受領した。以後、8月下旬まで前線の広域に配置されて活動を行った。この期間に戦車9両を失ったが、この内の2両はワイン蔵の天井を踏み抜いたため爆破処分されたものである。また、7月末に第2中隊は残存戦車を第3小隊に移管してクレヴァルコーレへ移動、9月上旬には戦車を受領するべくブレンナー峠を越えてドイツ・パーダーボルンへと向かった。連合軍は8月下旬に「ゴシック・ライン」(イタリア中部-北部を隔てるアペニン山脈に築かれた防衛線)まで到達したが、戦線はここで長期の膠着状態となる。 9月上旬、第1中隊はフィレンツェからアペニン山脈を越えてボローニャへ抜け、アドリア海側のチェゼーナ・サンマリノへ布陣した。一方、第3中隊と補給部隊はフィレンツェからヴィアレッジョまで西進、ティレニア海沿岸から迂回して9月末にチェゼーナへ到達。10月1日に大隊は第76装甲軍団に配属された。 10月20日に重爆薬運搬車をアイゼナハへ鉄道で移送、11月30日に元第313(無線操縦)戦車中隊員は第300戦車大隊へ復帰した。1945年1月1日にファエンツァで交戦、3日から4日にソラローラ南部で戦闘に参加。この後は戦車による砲兵任務を行い、2月12日に残存のティーガー全15両とベルゲパンター戦車回収車1両を第504重戦車大隊に引渡し、オーストリア南部のフィラッハへ移動した。
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