イタリア戦役第一段階とは? わかりやすく解説

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イタリア戦役第一段階(535年~540年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)

ユスティニアヌス1世」の記事における「イタリア戦役第一段階(535年540年)」の解説

詳細は「ゴート戦争」を参照 アフリカ同様にイタリア半島東ゴート王国でも王族内の内紛介入機会与えた534年10月2日まだ年少アタラリック王が死去する簒奪者テオダハド女王アマラスンタ初代国王テオドリックの娘でアタラリックの母)をボルセーナ湖のマルターナ島へ幽閉し、翌535年暗殺してしまった。そこで直ちに兵7,500率いたベリサリウスシチリア島侵攻しイタリア半島進軍ナポリ略奪し536年12月9日ローマ占領したその時までテオダハドゴート軍によって退位させられ兵士たちウィティギス新たな王に選んでいる。 ウィティギス大軍集めて537年2月から538年3月までローマ包囲したが、奪回できなかった。ユスティニアヌスナルセス将軍イタリアへ送ったが、ベリサリウスナルセス反目作戦進行妨げ結果となってしまった。東ローマ軍ミラノ占領したものの、すぐに街は東ゴート奪回されて破壊されている。 539年ユスティニアヌスナルセス召還する戦況ローマ側優勢に傾き540年ベリサリウス東ゴート首都ラヴェンナ迫った。そこで彼は東ゴートから西ローマ帝位提供され同時にユスティニアヌスから和平交渉のための使者到着しユスティニアヌスポー川以北東ゴートに残すことを認めていた。ベリサリウスは提供を受けるかのように偽って540年5月に街に入りラヴェンナ帝国領たるのを改め宣言したその後ユスティニアヌス召還によりベリサリウスウィティギス王妃マタスンタ連行してコンスタンティノポリス帰還した

※この「イタリア戦役第一段階(535年~540年)」の解説は、「ユスティニアヌス1世」の解説の一部です。
「イタリア戦役第一段階(535年~540年)」を含む「ユスティニアヌス1世」の記事については、「ユスティニアヌス1世」の概要を参照ください。

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