イタリア戦役第一段階(535年~540年)
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「ユスティニアヌス1世」の記事における「イタリア戦役第一段階(535年~540年)」の解説
詳細は「ゴート戦争」を参照 アフリカと同様にイタリア半島の東ゴート王国でも王族内の内紛が介入の機会を与えた。534年10月2日まだ年少のアタラリック王が死去すると簒奪者テオダハドは女王アマラスンタ(初代国王テオドリックの娘でアタラリックの母)をボルセーナ湖のマルターナ島へ幽閉し、翌535年に暗殺してしまった。そこで直ちに兵7,500を率いたベリサリウスがシチリア島へ侵攻してイタリア半島へ進軍、ナポリを略奪し、536年12月9日にローマを占領した。その時までにテオダハドはゴート軍によって退位させられ、兵士たちはウィティギスを新たな王に選んでいる。 ウィティギスは大軍を集めて537年2月から538年3月までローマを包囲したが、奪回できなかった。ユスティニアヌスはナルセス将軍をイタリアへ送ったが、ベリサリウスとナルセスの反目が作戦の進行を妨げる結果となってしまった。東ローマ軍はミラノを占領したものの、すぐに街は東ゴートに奪回されて破壊されている。 539年にユスティニアヌスがナルセスを召還すると戦況はローマ側の優勢に傾き、540年にベリサリウスは東ゴートの首都ラヴェンナへ迫った。そこで彼は東ゴートから西ローマの帝位を提供され、同時にユスティニアヌスから和平交渉のための使者が到着し、ユスティニアヌスはポー川以北を東ゴートに残すことを認めていた。ベリサリウスは提供を受けるかのように偽って540年5月に街に入り、ラヴェンナが帝国領たるのを改めて宣言した。その後、ユスティニアヌスの召還によりベリサリウスはウィティギスと王妃マタスンタを連行してコンスタンティノポリスへ帰還した。
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