イタリア戦線 カッシーノからローマへの道
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「第100歩兵大隊」の記事における「イタリア戦線 カッシーノからローマへの道」の解説
1943年9月22日 - イタリア戦線カンパニア州サレルノ県サレルノに上陸。 1943年9月28日~30日 - アヴェッリーノ県モンテマラーノからベネヴェントに至る街道において初の戦闘が行われる。9月28日に、シゲオ "ジョー" タカタ軍曹(Sgt. Shigeo "Joe" Takata)をはじめとする戦死者3名を出す。 1943年10月10日 - 師団長の命令により、ヘルメット前面に師団章(RedBull)のペイントが許可される。師団の一員(ひいてはアメリカ軍兵士として)に認められた証であるこの措置は、兵士達を喜ばせた。第100歩兵大隊は他の師団、部隊に配属されて戦闘を経験しているが、戦時中に彼らが付けた部隊章で確認できるものは、この第34師団章のみ。また、戦後も第100歩兵大隊退役兵が第34師団章をモチーフにしたバッヂや帽子、シャツ等を愛用した。 この頃の被服はウールの上下にODフィールドジャケットが一般的で、外征用のバックスキンアンクルブーツ(タイプ3)にキャンバス製のレギンスを使用。 1943年10月18日~24日 - ヴォルトゥルノ川を渡河し、カゼルタ県サンタンジェロ・ダリーフェを攻撃。戦死者23名。 1943年10月22日 - 副大隊長ジェームス・ラベル少佐負傷。 1943年10月29日 - 大隊長ファーレント・ターナー中佐は療養を命ぜられ、ジェームス・ギレスピー中佐に交代。 1943年10月30日~11月4日 - 第3回ヴォルトルノ川渡河。戦死者21名。 1943年11月5日~12日 - 590高地、600高地、610高地の戦い。戦死者33名。 1943年11月28日~12月15日 - ルート掃討戦 1017高地、920高地、841高地の戦い。戦死者39名。 1943年12月5日 - 大隊長がキャスパー・クロー少佐に交代。 1944年1月5日 - 第100歩兵大隊と第3大隊は第36師団砲兵を加えてタスクフォースBを編成し、第1特殊任務部隊のフレデリック大佐指揮により翌日よりマジョ高地群の掃討に向けた行動を開始。 1944年1月7日~13日 - マジョ高地群 1190高地、1270高地、692高地の戦い。戦死者13名。 これらの高地を巡る戦闘は犠牲も出したが、第100歩兵大隊に戦闘部隊としての経験と自信を植え付け、以後の第100歩兵大隊は戦闘時にも混乱を起こす事なく戦った。 1944年1月23日~26日 - モンテ・カッシーノの戦い。戦死者23名 第100歩兵大隊が参加した一度目の大規模戦闘で、作戦の困難さから連合軍の汚点として残る戦いである。第100歩兵大隊は遮蔽物の無い平原と氾濫した泥の川を渡るも、攻略には至らず後退した。第100歩兵大隊兵士は戦後に辛かった戦場を聞かれると「やっぱりカッシーノだね」と答えており、第5軍司令官マーク・クラーク中将も「カッシーノ戦はイタリア戦線に於ける最も壮烈で最も悲惨な、ある意味で最も悲劇の戦い」と評している。。 また、この時期の第100歩兵大隊ではODフィールドジャケットの他、通称「タンカース」とも呼ばれる冬季コンバットジャケットと同トラウザースを使用、ジャケットには第34師団章を着用した。イタリアの冬は寒く、冬季戦のユニフォームとして支給されていた。また防寒下着の上下に加え、オーバーシューも使用している。一部写真に革製のバックルタイプのレギンスを使用 1944年1月24日 - 新大隊長ジョージ・デューイ少佐が負傷し、副大隊長ジャック・ジョンソン少佐が戦死。 1944年1月29日 - 新大隊長として、ジェームス・ラベル少佐が復帰。 1943年2月4日~12日 - キャッスルヒル、165高地の戦い。戦死者12名。 1944年2月8日 - 大隊長ジェームス・ラベル少佐および大隊長代理キャスパー・クロウ少佐が負傷したため、ヨンオク・キム中尉が臨時に大隊の指揮を執る。 1944年2月15日 - モンテ・カッシーノより後退し、休養と再編成を行う。大隊の大部分の兵士が負傷し、パープルハート章を受章した事からパープルハート大隊とも呼ばれた。 1944年3月24日 - LST(戦車揚陸艦)により、ラツィオ州ローマ県アンツィオに上陸し、アンツィオの戦いに参加。 1944年4月2日 - 新大隊長ゴードン・シングルス中佐着任。 1944年4月6日 - 6月1日 - アンツィオ橋頭堡の戦い。戦死者13名。 1944年5月16日 - ヨンオク・キム大尉とアカホシ上等兵が、偵察行動中にドイツ軍の捕虜を確保し、第100歩兵大隊初の殊勲十字勲章を叙勲。 1944年5月23日 - シーザーライン(英語版)(Caesar Line)への攻撃開始。 1944年6月2日~5日 - アルバーノ・ラツィアーレ高地の戦い。戦死者27名。 暖かくなってくると、第100歩兵大隊の写真ではウールの上下のみで過ごした。また、シャツにも多くの兵士が第34師団章を着用。 1944年6月3日 - ゴードン・シングルス中佐が第100歩兵大隊長を兼務したまま、5つの砲兵隊を含む機動部隊(シングルス・タスクフォース)の指揮を執る。 1944年6月4日 - ローマ解放(第100歩兵大隊はローマへ入れず。※理由は諸説あり)。 日系人(有色人種)にローマへの第一陣をさせなかったと言う説と純粋に交替時期だったという説がある。 なおローマへの第一陣は第1特殊任務部隊である。
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