イタリア戦線 カッシーノからローマへの道とは? わかりやすく解説

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イタリア戦線 カッシーノからローマへの道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 01:51 UTC 版)

第100歩兵大隊」の記事における「イタリア戦線 カッシーノからローマへの道」の解説

1943年9月22日 - イタリア戦線カンパニア州サレルノ県サレルノ上陸1943年9月28日30日 - アヴェッリーノ県モンテマラーノからベネヴェントに至る街道において初の戦闘が行われる。9月28日に、シゲオ "ジョー" タカタ軍曹Sgt. Shigeo "Joe" Takata)をはじめとする戦死者3名を出す。 1943年10月10日 - 師団長命令により、ヘルメット前面師団章(RedBull)のペイント許可される師団一員ひいてはアメリカ軍兵士として)に認められた証であるこの措置は、兵士達喜ばせた第100歩兵大隊は他の師団部隊配属され戦闘経験しているが、戦時中に彼らが付けた部隊章確認できるものは、この第34師団章のみ。また、戦後第100歩兵大隊退役兵が第34師団章をモチーフにしたバッヂ帽子シャツ等を愛用した。 この頃被服ウールの上下にODフィールドジャケット一般的で、外征用のバックスキンアンクルブーツ(タイプ3)にキャンバス製のレギンス使用1943年10月18日24日 - ヴォルトゥルノ川渡河し、カゼルタ県サンタンジェロ・ダリーフェ攻撃戦死者23名。 1943年10月22日 - 副大隊長ジェームス・ラベル少佐負傷1943年10月29日 - 大隊長ファーレント・ターナー中佐療養を命ぜられ、ジェームス・ギレスピー中佐交代1943年10月30日11月4日 - 第3回ヴォルトルノ川渡河。戦死者21名。 1943年11月5日12日 - 590高地600高地610高地戦い戦死者33名。 1943年11月28日12月15日 - ルート掃討戦 1017高地、920高地、841高地戦い戦死者39名。 1943年12月5日 - 大隊長がキャスパー・クロー少佐交代1944年1月5日 - 第100歩兵大隊第3大隊は第36師団砲兵加えてタスクフォースBを編成し、第1特殊任務部隊フレデリック大佐指揮により翌日よりマジョ高地群の掃討向けた行動開始1944年1月7日13日 - マジョ高地群 1190高地、1270高地692高地戦い戦死者13名。 これらの高地を巡る戦闘犠牲出したが、第100歩兵大隊戦闘部隊としての経験自信植え付け以後第100歩兵大隊戦闘時にも混乱起こす事なく戦った1944年1月23日26日 - モンテ・カッシーノの戦い戦死者23第100歩兵大隊参加した一度目の大規模戦闘で、作戦困難さから連合軍汚点として残る戦いである。第100歩兵大隊遮蔽物の無い平原氾濫した泥の川を渡るも、攻略には至らず後退した第100歩兵大隊兵士戦後辛かった戦場聞かれると「やっぱりカッシーノだね」と答えており、第5軍司令官マーク・クラーク中将も「カッシーノ戦はイタリア戦線に於ける最も壮烈で最も悲惨なある意味で最も悲劇戦い」と評している。。 また、この時期第100歩兵大隊ではODフィールドジャケットの他、通称「タンカース」とも呼ばれる冬季コンバットジャケットと同トラウザースを使用ジャケットには第34師団章を着用したイタリアの冬は寒く冬季戦のユニフォームとして支給されていた。また防寒下着の上下に加え、オーバーシューも使用している。一部写真に革製のバックルタイプのレギンス使用 1944年1月24日 - 新大隊長ジョージ・デューイ少佐負傷し、副大隊長ジャック・ジョンソン少佐戦死1944年1月29日 - 新大隊長として、ジェームス・ラベル少佐復帰1943年2月4日12日 - キャッスルヒル165高地戦い戦死者12名。 1944年2月8日 - 大隊長ジェームス・ラベル少佐および大隊長代理キャスパー・クロウ少佐負傷したため、ヨンオク・キム中尉臨時大隊指揮執る1944年2月15日 - モンテ・カッシーノより後退し休養再編成を行う。大隊大部分兵士負傷しパープルハート章受章した事からパープルハート大隊とも呼ばれた1944年3月24日 - LST戦車揚陸艦)により、ラツィオ州ローマ県アンツィオ上陸しアンツィオの戦い参加1944年4月2日 - 新大隊長ゴードン・シングルス中佐着任1944年4月6日 - 6月1日 - アンツィオ橋頭堡戦い戦死者13名。 1944年5月16日 - ヨンオク・キム大尉アカホシ上等兵が、偵察行動中にドイツ軍捕虜確保し第100歩兵大隊初の殊勲十字勲章叙勲1944年5月23日 - シーザーライン(英語版)(Caesar Line)への攻撃開始1944年6月2日5日 - アルバーノ・ラツィアーレ高地戦い戦死者27名。 暖かくなってくると、第100歩兵大隊写真ではウールの上下のみで過ごしたまた、シャツにも多く兵士が第34師団章を着用1944年6月3日 - ゴードン・シングルス中佐第100歩兵大隊長を兼務したまま、5つ砲兵隊を含む機動部隊(シングルス・タスクフォース)の指揮執る1944年6月4日 - ローマ解放第100歩兵大隊ローマへ入れず。※理由諸説あり)。 日系人有色人種)にローマへ第一陣をさせなかったと言う説と純粋に交替時期だったという説がある。 なおローマへ第一陣は第1特殊任務部隊である。

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