イタリア戦争とグラウビュンデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「イタリア戦争とグラウビュンデン」の解説
前述のように、マクシミリアン1世はブルゴーニュ公シャルルの娘、マリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、ブルゴーニュ領を継承したため、ヴァロワ朝フランス王家との権力闘争に入り込むこととなる。さらに、マクシミリアン1世は、1493年にミラノのスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚、ミラノ公を自負するフランス王と真っ向から対立する。ハプスブルク家はイタリア戦争に直接的に関与せざるを得なくなった。グラウビュンデン、特にヴァル・ミュシュタイアーは、チロルとミラノの直接ルートである。ヴァル・ミュシュタイアーのウンブライル峠はチロル南部のフィンシュガウ渓谷とイタリア北部のヴァルテッリーナを結んでおり、これらの地は当時のハプスブルク家にとって非常に重要であった。 だが、長年この地域は、ハプスブルク家とクール司教が、司法権をめぐって争っていた。1363年、ハプスブルク家は配下のチロル伯を使って、クール司教のみならず渓谷全体の支配を画策したのだが、そのためにグラウビュンデンの民衆の抵抗組織が成立した。それがゴッテスハウス同盟であり、後にグラウビュンデンの三同盟へと発展する。三同盟もスイス同盟のように広範囲に及ぶ自治を達成したが、グラウビュンデン地方への影響力を保ち続けようとするハプスブルク家との絶え間ない闘争に巻き込まれることとなった。1470年代から1480年代の間に、オーストリア大公ジークムントは徐々に高度司法権を十裁判区同盟の多くのコミューンで獲得することに成功し、皇帝マクシミリアン1世も領土拡張主義的戦略を継続した。三同盟は、ハプスブルク家に対抗して、1497~98年にスイス同盟と緊密な軍事同盟を結ぶようになった。
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