イタリア式築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 07:56 UTC 版)
15世紀後半に起こったもう1つの変化は、古いスタイルの要塞を非常に弱体化させた攻城兵器の改良(大砲)だった。しかし、攻囲戦における攻城戦術の覇権は、それほど長くは続かなかった。フィリップ・コンタミーヌ(英語版)が指摘したように、すべての時代に見られる弁証法的プロセスによって、攻城戦術の進歩は築城術の進歩によって抑え込まれ、その逆も同様だった 。1494年のシャルル8世のイタリア侵攻は、攻城兵器の有効性を示した。しかし、16世紀初頭までにこの地域では、砲撃に対抗するために特別に設計された要塞が出現し始めていた。15世紀の「砲兵革命」の完全な影響はイタリア式築城術、つまり堡塁と稜堡式城郭によってかなり急速に鈍化した。しかし、強力な攻城部隊を保有することによる軍事上の優位性は、15世紀後半にヨーロッパのいくつかの国家で見られた王権の強化に少なからず貢献した。 ロバーツの横隊戦術の概念は初期から若き歴史家ジェフリー・パーカーに批判された。パーカーは、ならばなぜ古いスペインのテルシオがスウェーデンの横隊相手に1634年のネルトリンゲンの戦いで勝てたのかと問うた。パーカーはその代わりに、重要な発展は近世ヨーロッパにおけるイタリア式築城、つまり稜堡式城郭の出現であると示唆した。この見解では、そのような要塞を攻略することの困難さが、軍事戦略に大きな変化をもたらしたとする。「戦争が一連の長期にわたる攻城戦になった」とパーカーは指摘し、野戦軍同士の戦いは、イタリア式要塞が存在する地域では「無関係」になった。最終的に、パーカーは「軍事地理」、つまり特定の地域におけるイタリア式築城の存在または不在を重視し、それが近世初期の軍事戦略を形作り、新式の要塞を攻囲するために、そしてそれを守備するために、より大規模な軍隊の創設につながったとする。このようにして、パーカーは16世紀初頭に軍事革命を誕生させた。彼はまた、この軍事的変化が国家の拡大の要因だったにとどまらず(「海軍革命」とともに)ヨーロッパが他の文明を超える拡大は果たした主因だったともした。 このモデルは、いくつかの理由で批判されている。ジェレミー・ブラックは、軍隊の規模の拡大を可能にしたのは国家の発展であり、その逆ではなかったと指摘し、パーカーの主張を「技術的決定論」と断罪した。また、軍隊の規模拡大を説明するためにパーカーによって提示された数字は、一貫性が欠如しているとしてデービッド・エルティスによって厳しく批判されており、デービッド・パロットは、イタリア築城術の時代にフランス陸軍の規模は特に顕著な拡大を見せていないことを証明した。さらに、三十年戦争の後期には軍内での騎兵の割合は増加しており、これは攻囲戦の必要性によって騎兵の重要性が低下したとするパーカーの説とは対照をなす。
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