王権の強化
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「ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「王権の強化」の解説
既にハインリヒ3世が王に即位した時点で、当時の「神聖ローマ帝国」内に並び立つ勢力はいなかった。先代までの王は、王位の承認を得るために各地を巡行する必要があった。だが、ハインリヒにとっての各地の巡行は、王の威光を各地に示すものであった。彼の指導者としての前途は洋々たるものであった。 バイエルン大公・シュヴァーベン大公の地位は、王位就任後間もなく手放して貴族に授封するが、在地に勢力基盤を持たない貴族にその地位を与えることで、大公の地位そのものを官職化させた。さらに、多くの所領を教会に寄進することで、地方勢力の経済的基盤を弱体化させた。こうした一連の大公の地位を弱体化させようという試みはロートリンゲン大公との軍事衝突を招いたが、公領を分割し最終的に上ロートリンゲン公位をシャトノワ家に、下ロートリンゲン公位をアルデンヌ家に与えることで、これも解決させた。一方、ザクセンはビルング家が大公位を世襲していたが、ザクセンに基盤を持たないハインリヒはこの地に深く介入ができず、在地貴族と対立した。ポーランド王国・ボヘミア王国・ハンガリー王国といった東の隣国に対しては、それまで名はあれど実態の無かった(フランクの)「王」の権威を承認させている。
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王権の強化
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アヴィス王朝の歴代の国王は王権の強化を計り、様々な試みを打ち出した。 ジョアン1世は商人からの援助の取り付けを試み、政治的・経済的に重要な要職に就く人物をポルトガル国内のブルジョアジー、小貴族、職人層の人間の中から抜擢した。アヴィス派の蜂起に財政支援という形で協力したリスボンやポルトのブルジョアジーには、政府の政策決定に参画する権利が認められる。同時に新興の土地貴族が勢力を伸ばし、新しい封建領主層の代表者であるヌノ・アルヴァレス・ペレイラ(英語版)が隠棲した後、彼の娘婿でジョアン1世の庶子でもあるドン・アフォンソが義父の財産と政治的地位を相続した。ジョアン1世が創設した常備軍によって王権は強化され、彼の存命中に王子ドゥアルテが国政に参画したため、次第に国王とコルテスの間に距離が生じていった。 ジョアン1世は王朝の功績があった貴族に多くの所領を与えたため、国庫は窮乏に陥っていた。ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は恩賞として与えた土地・財産の相続人を長男に限定し、それらの資産の売却・分割を認めず、女性・尊属・傍系親族を相続人と認めない不文律を成文法として制定する。 ジョアン1世の治世にコルテスは公判かつ複雑な法令の簡略化と統一を要請し、アフォンソ5世の治世に法典が完成した。ドン・ペドロの摂政時代の1446年にアフォンソ法典が発布され、法制による国内の統合が試みられた。ドン・ペドロが没した後のアフォンソ5世の親政時代には貴族が王権の強化に反発し、アフォンソ5世は対外戦争に従軍した代償として多くの王領地を貴族に授与した。 ジョアン2世からジョアン3世にかけての治世に、海外交易によって得た莫大な収益を背景として行われた王権の強化は成功を収める。アフォンソ5世の治世まで毎年開催されていたコルテスの頻度はジョアン2世の低下から低下し、課税にあたって国王はコルテスの承認を得る必要がなくなっていた。ジョアン2世は大貴族の力を抑え、中小貴族にポルトガル本国や海外拠点の官職を与えて宮廷貴族とし、彼らの後ろ盾となった。 ジョアン2世の跡を継いだマヌエル1世は貴族に対して寛大な態度をとったアフォンソ5世の方針と容赦の無い弾圧を加えたジョアン2世の方針の折衷案として、王権に敵対する党派に妥協的な姿勢をもって接する。マヌエル1世の在位中には貴族の伝統的な権利を保護するためにスペイン風の制度を導入し、同時にブルジョワジーの力を抑制した。マヌエル1世の即位時にキリスト騎士団、ジョアン3世の治世にサンティアゴ騎士団とアヴィス騎士団が王室に吸収されたためにこれまで騎士修道会の勢力下にあったポルトガル南部が王領地に併合され、王領地がポルトガル本土の半分以上を占めるようになった。1512年に発布された新たな法典である『マヌエル法典』には、中央集権化を推進するルネサンス時代の特徴が現れている。『マヌエル法典』の公布によって各地のコンセーリョ(自治共同体)は自治権を失い、フォラル(特許状)は国法の遵守と国王への義務を明記する文書に変質し、ポルトガルの官僚絶対主義国家への転換が進んでいく。 ジョアン3世の時代になると国王の権威はより高められ、これまで神に対して使用されていた「Najestade」の称号が国王に対して使われるようになる。ジョアン3世の治世の末期からセバスティアン1世の治世の大部分にポルトガルは安定期を迎え、大規模な変革は起こらなかった。セバスティアン1世の摂政のカタリナとドン・エンリケ、親政を開始したセバスティアン1世らの治世に施行された法律の大部分は信仰や教会に関するものだった。
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