後醍醐空海再来説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 17:44 UTC 版)
「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の記事における「後醍醐空海再来説」の解説
本作品は、後醍醐天皇崩御二ヶ月という南北朝時代で最も重要な時期の一つに作成されたものであるため、当時の政治を伺うことができる史料としても貴重である。 まず第一に、文観房弘真の奥書が、「今上聖主(後醍醐天皇)は誠に大師の再誕」と、後醍醐を弘法大師空海の再来として扱っている点が重要である。仏教史研究者の坂口太郎の指摘によって、建武元年(1334年)の東寺塔供養表白で、東寺長者の道意が、本作品と同様に後醍醐を空海の再来と扱っていることが判明している。したがって、この一文は文観一人のお世辞ではなく、少なくとも真言密教界の一部で後醍醐天皇を空海再来と見なす傾向があったのは確かである。 後醍醐天皇は他にも空海の袈裟と伝わる「犍陀穀糸袈裟」(けんだこくしけさ、国宝、東寺蔵)を灌頂で使用するなど、空海ゆかりの秘宝を集めたり、その事跡を辿ったりするなどをして自らの聖性を高める努力をしている。本作品についても、原本の『天長印長』は、本来は醍醐寺座主以外は天皇であってさえも見てはならないはずが、後醍醐は空海の再来だから可能であり、しかも空海の聖性を写すことも可能であるという論理である。仏教美術研究者の内田啓一の主張によれば、ここまでくると、後醍醐は、密教界では「治天の君」というよりも、「真言密教の君」と見なされていたかのようにも思えるほどであるという。 この後醍醐神格化については、21世紀初頭時点で、後醍醐天皇の側から働きかけたという説と、それとは逆に密教僧の側から働きかけたという説の両説がある。 内田によれば、二つの皇統が並立した両統迭立・南北朝の内乱という状況の中で、後醍醐は仏教勢力を掌握するために、真言密教界においても自らの王権を確立する必要があった。そのため、父である後宇多天皇が敷いてきた積極的な密教政策に則り、空海という超越的存在に重ね合わせることで聖性・王権の強化を図ったのではないかという。坂口も同様に、宗教的な王権の強化という説を唱えた。 その一方、仏教史研究者の大塚紀弘は、後醍醐天皇が重宝を召し上げた寺社は、基本的に後醍醐とは既に良好な関係に有ることを指摘し、後醍醐が強引に奪取したというような解釈は妥当ではなく、むしろこれらの寺社の側から、後醍醐に宝を献上することで、後醍醐との結びつきを強くしようとしたのではないか、と主張した。
※この「後醍醐空海再来説」の解説は、「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の解説の一部です。
「後醍醐空海再来説」を含む「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の記事については、「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の概要を参照ください。
- 後醍醐空海再来説のページへのリンク