後醍醐方の公家からの評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「後醍醐方の公家からの評価」の解説
後醍醐方の公家達は、万里小路宣房や千種忠顕などの後醍醐の寵臣を除き、概ね建武政権に批判的であった。そのため、建武3年(1336年)2月29日には、洞院公賢を始めとした公卿層が、「延元」への改元を主張した。後醍醐は改元に消極的であったが、公卿達は「後醍醐が立てた『建武』の年号を降ろすことで、新政を批判することになる」として積極的に改元を働きかけた。また、同年正月には、後醍醐の寵臣である万里小路宣房と千種忠顕が相次いで出家に追い込まれており、これも後醍醐の新政への批判が相次いだためであった。そのため、後醍醐はこの後に、これまでの「新政」に手を染めておらず、むしろ「新政」に批判的であった親房を宣房や忠顕らに代わって登用することで、公卿層の批判を抑えようとした。
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