後醍醐天皇の倒幕にいたる過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
「鎌倉幕府」の記事における「後醍醐天皇の倒幕にいたる過程」の解説
2007年に河内祥輔によって、新説の「冤罪説」が唱えられた。河内によれば、後醍醐は父である、後宇多天皇の意志を継ぐ堅実な天皇であり、少なくとも元亨4年(1324年)時点ではまだ討幕を考えておらず、鎌倉幕府との融和路線を堅持していた。後醍醐派逮捕は、後醍醐の朝廷での政敵である、大覚寺統嫡流・邦良親王派もしくは持明院統側から仕掛けられた罠であったという。なぜ日野資朝が流罪になったかと言えば、後醍醐派を完全に無罪にしてしまうと、幕府側の捜査失態の責任が問われる上に、邦良派・持明院統まで新たに捜査せざるを得ず、国家的非常事態になってしまうので、事件をうやむやにしたかったのではないかという。すなわち後醍醐派が被害者であり、取り立てた失態もないのに自派だけ損害を受けた形になったという。2010年代後半以降、河内の冤罪説を支持する研究者も複数現れている。
※この「後醍醐天皇の倒幕にいたる過程」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
「後醍醐天皇の倒幕にいたる過程」を含む「鎌倉幕府」の記事については、「鎌倉幕府」の概要を参照ください。
- 後醍醐天皇の倒幕にいたる過程のページへのリンク