後醍醐天皇の伊勢還幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 09:17 UTC 版)
『結城家文書』には、延元2年正月元旦に親房が顕家に送った書状が収録されているが、その書状には「御願を果たされんが為、勢州に幸すべきの由、仰られ候なり。天下復興程あるべからず。愚身(親房)勢州に於て逆徒静謐の計りごとを廻らし、臨幸を待ち申すべく候。」と記されている。つまり、後醍醐が伊勢に行幸すると述べていたことを記している。このことから、親房が伊勢に下向したのも、伊勢遷幸計画の先遣隊という意味を持っていたことになる。後醍醐が伊勢遷幸を計ったのは、天武天皇の壬申の乱が念頭にあったからであり、またそれが天皇家にとって常に立ち返るべき最も輝かしい過去であったからである。
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