後醍醐天皇崩御
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延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)、文観が長年仕えてきた後醍醐天皇が崩御した。崩御前日に皇太子の義良親王が践祚し、後村上天皇として南朝天皇の位を継いだ。 『瑜伽伝灯鈔』によれば、文観は後村上天皇の代においても護持僧(祈祷によって天皇を守護する高僧)を務めるように宣下を受けたという。同書によれば、その後、文観は後村上天皇に両部灌頂という儀式を授けている。 9月21日には、五七日供養を行い、『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財、清浄光寺蔵)の開眼を行っている。 その後の南朝側の明確な史料は現存しないものの、おそらく文観が新帝である後村上天皇の護持僧として、先帝供養のための一連の仏事の導師を引き続き担当したと考えられる。 一方、北朝においても後醍醐天皇への仏事が盛大に行われていた。『師守記』等によれば、これは北朝公家側よりも武家である将軍足利尊氏の意向が大きかったという。最も著名なのは、臨済宗の禅僧である夢窓疎石によって、後醍醐帝鎮魂のために開かれた天龍寺の建立である。 北朝側の真言宗においても、足利将軍家の邸宅である三条坊門殿内の等持院で、同年11月26日に後醍醐天皇の百日忌が開催された。このときの真言宗の導師は、真乗院の僧正(名称不明)が務めたとする説(『師守記』一本)と、随心院の僧正である経厳(摂政太政大臣一条家経息)が務めたとする説(『大日本史料』所収版の『師守記』および『東寺王代記』)がある。東寺一長者・醍醐寺座主である賢俊ではないという点が注目される。
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