後醍醐天皇崩御とは? わかりやすく解説

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後醍醐天皇崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「後醍醐天皇崩御」の解説

延元4年/暦応2年8月16日1339年9月19日)、文観長年仕えてきた後醍醐天皇崩御した。崩御前日皇太子義良親王践祚し、後村上天皇として南朝天皇の位を継いだ。 『瑜伽伝灯鈔によれば文観後村上天皇の代においても護持僧祈祷によって天皇守護する高僧)を務めるように宣下受けたという。同書によればその後文観後村上天皇両部灌頂という儀式授けている。 9月21日には、五七日供養行い、『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財清浄光寺)の開眼行っている。 その後南朝側の明確な史料現存しないものの、おそらく文観新帝である後村上天皇護持僧として、先帝供養のための一連の仏事導師引き続き担当した考えられる一方北朝においても後醍醐天皇への仏事盛大に行われていた。『師守記』等によれば、これは北朝公家側よりも武家である将軍足利尊氏意向大きかったという。最も著名なのは、臨済宗禅僧である夢窓疎石によって、後醍醐帝鎮魂のために開かれた天龍寺建立である。 北朝側の真言宗においても、足利将軍家邸宅である三条坊門殿内の等持院で、同年11月26日後醍醐天皇百日忌が開催された。このときの真言宗導師は、真乗院僧正名称不明)が務めたとする説(『師守記一本)と、随心院僧正である経厳(摂政太政大臣一条家経息)が務めたとする説(『大日本史料所収版の『師守記』および『東寺王代記』)がある。東寺一長者醍醐寺座主である賢俊ではないという点が注目される

※この「後醍醐天皇崩御」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「後醍醐天皇崩御」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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