北畠親房からの評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「神皇正統記」も参照 北畠親房は、慈円と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には南朝を主導し、南朝准三宮として皇后らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『神皇正統記』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の北畠顕家が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した。「三房」の一人とされる北畠親房の真の主は、後醍醐天皇の父の後宇多上皇であり、「後醍醐天皇に仕えた」と強調される考えが妥当でなく、北畠親房が後醍醐天皇に辛辣なのはそのためであるという意見もある。 親房は、『神皇正統記』で、総合評価としては、後醍醐天皇を最も優れた天皇の一人だとした。たとえば、真言密教への帰依が深いだけではなく、それ以外の宗派、たとえば禅宗なども手厚く保護し、中国から来た禅僧でも参内させたことを高く評価している。親房が特に賞賛するのは学問的能力で、和漢の道に通じていたという面において、中比(中古)以来、後醍醐に匹敵する天皇はいないという。また、後宇多上皇が治天の君を辞して、後醍醐が初めて親政を開始した時の政治について、優れた訴訟処理を行ったので、天下の民が後醍醐を敬った、と主張している。 とはいえ、親房は後醍醐天皇の政策を支持している訳ではなかった。特に、『神皇正統記』では、建武政権の人事政策について、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている。また、上横手雅敬が指摘するように、奥州合戦(文治5年(1189年))以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった。親房がイメージしていた「公家一統」の世は、『神皇正統記』の「公家の古き御政にかへるべき世」であり、後醍醐の「新政」とは対立する立場であった(実際に親房は建武政権下で冷遇されており、その政治力を強く発揮したのは後村上天皇の時代であった)。 加えて、『太平記』によれば、建武2年(1335年)に尊氏が鎌倉に下向したまま召還命令に従わなかったことに対し、後醍醐が「たとひ其の忠功莫大なりとも、不義を重ねば逆臣たるべき条勿論也」として、直ちに追伐の宣旨を下そうとした際、親房ら公卿が「尊氏が不義、叡聞に達と雖も、未だ其の実を知らず。罪の疑わしきを以って功の誠あるを棄てられん事は仁政にあらず」と諫言しているが、これは親房が尊氏を弁護したのではなく、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐の朝令暮改ぶりに対して、「このままでは世論の信頼を失う可能性がある」というニュアンスで為された発言であった。 ところが、現実主義者・マキャベリストである親房は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた。親房自身も、東国武士への官位推薦状を発することもあった(ただし、小田治久らの殆どの東国武士の再三の官位要求には、任官叙位の先例故実を根拠として、全く要求に応じておらず、結果的に親房の関東経営は失敗した)。 後醍醐とは思想的に対立することも多かった親房にとって、後醍醐の思想はやはり受け入れられないものであった。そのため、後醍醐自身は召し上げることの無かった足利尊氏の「尊」の字をついぞ親房は用いることは無く、『神皇正統記』では一貫して「高氏」と記している。また、後醍醐が亡くなり親房自身が南朝の主導者となった後は、後村上天皇の綸旨にも見えるように、親房の指針によって南朝全体で尊氏を「高氏」と呼ぶようになった。
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