北畠氏が用いていたとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 15:18 UTC 版)
「風林火山」の記事における「北畠氏が用いていたとする説」の解説
武田信玄が風林火山の旗を用いたのは、北畠氏が中国の兵法書の六韜(りくとう)の軍学を奉じていたのに対抗するためと言われることが多い。 軍学者の兵頭二十八は、「当時の戦国武将の間では、兵法書といえば越前朝倉氏などが講義を受けていた『六韜』『三略』以外は知られていなかった。そこで信玄は、自分たちは孫子を知っているということを誇示し、敵を恐れさせるために孫子の旗を作ったのだろう」と述べているが、これも憶測の域を出ていない。 インターネット上[要出典]では、大阪阿部野神社蔵の伝・北畠顕家の旗に、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という文言があるといい、信玄は北畠顕家の旗を元に「孫子の旗」を作ったという説がある。
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