北畠顕家との連携失敗
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足利尊氏が落城直後の3月7日に一色範氏と島津貞久に充てた御教書には、義貞以下悉く、新田勢を誅伐した、という記述がある。尊氏は、義貞をこの戦で討ち取ったと思い込んでいたが程なくして、義貞が生き延びたことを知った。越前の南朝勢力への攻撃は以前と比べると激しくなくなり、新田一族が再び勢いをつけてゆくことになる。尊氏は、南朝勢力の内、義貞や彼が奉じた二人の親王のいる越前に最も兵力を割いていたが、これは二人の親王を奉じてさらに多数の公家を随伴させている義貞の勢力が、自分に敵対する政治勢力として規模が大きく、京都に近い越前を根拠地としていることも合わさり、南朝の勢力の中でもっとも脅威になると尊氏の目に映っていたからだと考えられている。しかし、金ヶ崎城が陥落し、二人の親王がそれぞれ自害、あるいは捕虜となり、義貞と離れたことで、この脅威が払拭され、越前攻めの勢いは衰えた。 3月14日、義貞は佐々木忠枝を越後守護代に任命する。金ヶ崎城を失った義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利に対抗する。弟義助は、越前国三嶺城を拠点とし、足利軍を牽制した。 8月になると、奥州の北畠顕家が上洛の途につく。途中、義貞の次男新田義興と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流する。翌延元三年、顕家は上杉憲顕などを退け、西へ破竹の勢いで進軍した。 後醍醐天皇は各地の南朝勢力に対し、顕家の挙兵に呼応して決起するよう促した。杣山城の義貞は、2月に斯波高経を鯖江で破り、越前国府の攻略に成功する。『太平記』ではこの報が越前中に伝わると、足利方の出城73が降伏を申し出たという。また、伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起し、京都の足利軍を包囲して一斉攻撃により殲滅するという構想であった。 しかし、義貞、顕家らが円滑に連携することはできなかった。1月に青野原の戦いで土岐頼遠、高師冬らに快勝した顕家は、進路を転じて伊勢を経由して奈良へと向かった。その後は苦戦が続き、最終的に顕家は5月に和泉堺浦・石津で足利軍に敗北、戦死した(石津の戦い)。 『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。佐藤進一は、顕家、その父北畠親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌った、また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した。奥富敬之は、佐藤進一の見解について、北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している。 義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している。一方、峰岸はむしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している。 さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。佐藤和彦は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはい疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される。
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