北畠顕家の戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)
「南北朝時代 (日本)」の記事における「北畠顕家の戦死」の解説
延元2年/建武4年(1337年)、南朝鎮守府大将軍北畠顕家(北畠親房の子)は、後醍醐天皇や父の北畠親房の救援要請に応じ、12月、鎌倉を征服した。次いで、京都奪還を目指し、翌年1月に美濃国(現在の岐阜県)で青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るも、北陸の新田義貞との連携に失敗し、京への直進を諦める。 顕家は伊勢経由で迂回を試みたが、長引く遠征によって兵の勢いは衰えていた。次の戦が生死をかけた戦いになることを覚悟した顕家は、後醍醐天皇への諫奏文(『北畠顕家上奏文』)をしたためた。はたして、延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)、石津の戦いで幕府執事高師直に敗れ、戦死した。
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