小康期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)
「南北朝時代 (日本)」の記事における「小康期」の解説
新田義貞・北畠顕家の戦死後は一旦小康期となったものの、各地で小競り合いや調略が続いた。 室町幕府では、保守派の左兵衛督足利直義(尊氏の弟)が、御成敗式目などの鎌倉幕府の古典的武家法を元に基礎を作り、革新派の執事高師直が、雑訴決断所牒などの建武政権の先進的な法制度を改良した政策(執事施行状の発給など)を打ち出すことで、順調に足固めをしていった。 興国2年/暦応4年(1341年)ごろには一時的に南朝が勢いを取り戻した。同年3月24日、足利直義は、幕府の有力武将で出雲・隠岐両国守護の塩冶高貞に謀反の疑い有りと宣言、桃井直常・山名時氏を主将とする追討軍を派兵して、京を出奔した高貞を追い、同月末に高貞は播磨国で自害に追い込まれた(『師守記』暦応4年3月25日条および29日条)。鈴木登美恵や亀田俊和らの説によれば、高貞は皇族早田宮出身の妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治と内通していたのではないかという。
※この「小康期」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
「小康期」を含む「南北朝時代 (日本)」の記事については、「南北朝時代 (日本)」の概要を参照ください。
- 小康期のページへのリンク