小弓公方の全盛期と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 07:22 UTC 版)
このような状況で姿を現したのは、伊豆・相模両国を制圧した後北条氏の存在であった。後に小弓公方と対決をすることになった後北条氏であったが、当初は真里谷氏・小弓公方が後北条氏との連携を模索する動きもあり、必ずしも敵対していなかった。その関係が変わるのは、大永4年(1524年)に後北条氏が江戸城を占領して東京湾(内海・江戸湾)西部沿岸を完全に制圧したことにあった。内陸部に拠点を持つ古河公方と違い、東京湾東部沿岸を支配する小弓公方・真里谷氏・里見氏にとって同湾の制海権を掌握しかねない後北条氏の軍事力に対する警戒感が一気に高まり、彼らは後北条氏との対立を決意する。反対に義明排除を図る古河公方と東京湾の海上支配の確立を図る後北条氏の利害が一致することになり、両者が盟約を結ぶきっかけとなった。 天文2年(1533年)、里見氏の内部で発生した天文の内訌では義明は真里谷信清に命じて小弓派であった里見義豊の支援に当たらせた。だが、義豊は里見義堯に討たれて滅亡してしまう。そしてこれがきっかけに義明と信清が対立し、その対立に勝利した義明は信清を出家させた上で強制的に隠居させた。天文3年(1534年)に信清は死去する。やがて、真里谷氏内部で真里谷信隆と真里谷信応兄弟による家督争いが起こると、義明は里見義堯を自派に引き入れて信応を支持して信隆を追放するなど、巧みに真里谷氏の争いに介入する。こうして、義明は傀儡の立場から脱却し、正式な小弓公方として台頭する。そして同族である古河公方家や後北条氏と対立し、小弓公方家による南関東諸大名の統合を名分として急速に勢力を拡大してゆくこととなった。 しかし、このような小弓公方家の急速な勢力拡大は後北条氏や古河公方家に危機感を抱かせ、両者に同盟を結ばせるに至った。義明は古河公方と後北条氏が結びつくのを食い止めるため、天文7年(1538年)に真里谷信応や里見義堯ら房総の諸大名による軍勢を率いて北条氏綱・足利晴氏連合軍との決戦を決意する。いわゆる第一次国府台合戦である。義明は武勇に優れ、自ら陣頭で指揮するなど奮戦し、一時は北条・足利軍を大いに押したが、里見軍は義堯がもともとこの戦いに消極的であったためにあまり協力的ではなく、また真里谷氏内部にも家督争いに介入した義明に対して不快感を抱いていた者もいたため、義明ら房総軍の士気はあまり高くなかった。そのため、義明らの軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅し、義明自身も討ち死にした。義明の戦死後、小弓城は北条氏の支援を受けた千葉氏が奪還したために義明の遺族は里見氏を頼って安房に逃れ、小弓公方は事実上滅亡した。
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