北畠氏の本拠の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 15:21 UTC 版)
南北朝時代初期、北畠氏の拠点であった南勢(伊勢国南部)にある平地の城郭は次々に落城し、北畠顕能は長期戦に耐えうる城として興国3年(1342年)または興国4年(1343年)に、一志郡多気に城を構えた。当時17歳であった顕能は、交通の要所であったことから多気を選んだ。南北朝期の大小数十回に及ぶ戦では、北畠軍は1度を除いて霧山城から出陣していた。その後、出陣の拠点は阿坂城(白米城)へ移った。 正平年間になると、南朝方の軍勢は、北畠氏と楠木氏だけになっていた。そして正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、四條畷の戦いで楠木正行が討ち取られ、正行を破った北朝方の高師直は吉野へ攻め入り、皇居に火を放った。急報を受けた顕能は500騎を率いて多気より馳せ参じ、恐れを成した足利氏は退却した。顕能は弘和3年/永徳3年7月28日(1383年8月27日)に58歳にして多気山荘にて亡くなった。 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)、明徳の和約にしたがって南北朝が統一された。しかし明徳の和約で約束されていた両統迭立は称光天皇の即位によって破られ、応永22年(1415年)春に北畠満雅は阿坂城から挙兵した。この頃の霧山城に関連する記録としては、正長元年(1428年)7月に小倉宮聖承が京都嵯峨から逃亡し、同年7月16日(8月26日)に室町幕府は多気付近にいることを確認、更に同月19日(8月29日)には少なくとも同月10日(8月20日)から多気より奥にある興津(現・津市美杉町奥津)に潜んでいることを突き止めた、ということのみである。小倉宮は翌正長2年(1429年)3月まで霧山城でかくまわれていたが、その後行方不明となった。
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