南北朝時代
南北朝
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肥後時基は観応の擾乱で足利方となり、最中の1351年(観応2年)に日向国守護畠山直顕より感状を与えられる。足利義詮および九州探題今川了俊から、時基の子である肥後時充に日向征伐を求める書状が届いた。この時了俊から多禰島殿と称されたのが種子島姓の初出である。 南北朝期に畠山氏と島津氏との抗争が激化するが、肥後氏(種子島氏)は島津氏にも接近し、時充の子である肥後頼時は島津方として討死している。 南北朝合一が成ると了俊は中央へ呼び戻され、肥後氏は島津氏と和して臣従し、嫡流が種子島島主となり支配を固め、種子島氏と称した。 「種子島氏」も参照 島津氏の下で小番や御小姓与の家格を得た。
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南北朝
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南北朝(386年 - 589年)南朝(420年 - 589年) 北朝(386年 - 581年) 東晋の武将、劉裕が永初元年(420年)に宋王朝を建ててから、斉、梁、陳と3つの王朝が相次いで興亡した。この4つの王朝を南朝と呼ぶ。 晋の南渡に乗じて華北の地方に多種の異民族が侵入し五胡十六国時代が続いたが、その中でやがて一番大きな勢力をなしたのが鮮卑族の一種族である拓跋氏であった。この種族の出の拓跋珪が諸国を平定して魏王朝を建て、平城(現在の山西省大同市)に都を定めた。この魏王朝は三国時代の魏と区別して、北魏または後魏と呼ばれる。その後、北魏は、3代皇帝の太武帝の時に北涼を滅ぼして華北を統一し、江南の宋と対立した。この北魏が東魏、西魏に分裂し、まもなく東魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれ帝位を奪われた。のち北周は北斉を滅ぼして華北を統一したが、隋が北周と陳を滅ぼして天下を統一した。この北魏から北周までを北朝といい、宋から陳までの南朝に対応させている。 南朝の石刻として遺存するものは少ない。南朝で現存する法帖は、唐人の搨模といわれる少数の真跡本があるだけで、その他はすべて集帖に刻された墨拓ばかりで、原形を正しく伝えるものは少ない。北朝のものは豊富に遺存する。そのほとんどは18世紀後半以後に発見されたものである。
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南北朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:27 UTC 版)
足利尊氏が京都に持明院統(北朝)を擁立し後醍醐が吉野に南朝朝廷を構え南北朝体制となった後、全国的には足利・北朝方が概ね優勢であったため、持明院統の所領である長講堂領が衰えながらも多くは維持されたのに対し、八条院領は解体することになる。 南北朝合一時の明徳の和約でも、持明院統所領として長講堂領が確認されたのに対して大覚寺統には国衙領をあてがうとされ、八条院領の回復は、なされなかった。
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「南北朝」の例文・使い方・用例・文例
- 南北朝
- 南北朝鮮の間の戦い
- 南北朝,室町時代における在地領主
- 南北朝時代の二つの皇統
- 南北朝鮮のうちの一方としか交流のない国々が,相互に他方とも交流をもつこと
- 南北朝鮮のうちの一方としか接触のない国々が,相互に他方とも接触をもつこと
- 三八度線という,南北朝鮮の国境線
- 南北朝鮮の統一問題
- 中国で,南北朝時代という,華南と華北の王朝が対立した時代
- 日本において,南北朝時代という,北朝と南朝とが対立した時代
- 宋朝という,中国の南北朝時代の王朝
- 中国南北朝時代に,華北にあった諸王朝
- 日本の南北朝時代に,京都に足利氏が擁立した朝廷
- 南北朝時代における,南朝側の人々
- 吉野朝という,南北朝時代に吉野にあった朝廷
- 米国,中国,ロシア,日本,南北朝鮮の6か国は,昨年8月に第1回協議を開催したが,合意に達することができなかった。
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