北朝時代
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北魏の太武帝(在位:423年 - 452年)の時代、闞爽が高昌太守になる。太延(435年 - 440年)中、太武帝は散騎侍郎の王恩生らを高昌郡に遣わしたが、柔然に捕えられてしまう。太平真君(440年 - 451年)中、闞爽は沮渠無諱に襲撃され、沮渠無諱が高昌郡を奪って太守となった。沮渠無諱が死ぬと、弟の沮渠安周が立つ。 448年には、沮渠安周がトルファン盆地の車師へ侵攻し、車師人は西へ逃走する。 和平元年(460年)、高昌郡は柔然に併合されると、柔然によって闞伯周が高昌王に立てられ、ここで初めて高昌国が成立する。 太和(477年 - 499年)の初め、闞伯周が死去したため、子の闞義成が立った。1年あまりして闞義成は兄の闞首帰に殺され、闞首帰が自立して高昌王となる。 太和5年(481年)、高車王の阿伏至羅が闞首帰兄弟を殺し、敦煌人の張孟明を高昌王に立てた。。後に張孟明も国人に殺されたため、馬儒が立てられて高昌王となり、鞏顧礼・麴嘉をもって左右長史とした。 太和21年(497年)、馬儒は司馬の王体玄を北魏に遣わして奉表朝貢させ、挙国内徙を求めた。孝文帝(在位:471年 - 499年)はこれを納め、明威将軍の韓安保に千余騎を率いさせて高昌に赴かせた。羊榛水に至り、馬儒は麴嘉・鞏顧礼に歩騎1500を率いさせて韓安保を出迎えさせた。しかし、高昌から400里の地点でも韓安保が来なかったため、鞏顧礼らは高昌に帰り、韓安保もまた伊吾に帰った。韓安保は韓興安ら12人の使者を高昌に送り、馬儒はふたたび鞏顧礼の将でその世子である鞏義舒を遣わして韓安保の使者を迎えた。しかし、高昌旧人は本土に愛着があり、東遷を願わなかったため、馬儒を殺して麴嘉を立てて王とした。
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