北朝南部氏と北朝に合流した南部氏とは? わかりやすく解説

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北朝南部氏と北朝に合流した南部氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)

南部氏」の記事における「北朝南部氏と北朝に合流した南部氏」の解説

南部宗継は、矢矧戦い以降多々良浜の戦い」などで足利尊氏従い康永4年1345年8月29日には天竜寺供養随兵となる。その弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏南部信政戦没したとの説がある貞和1348年4年1月5日の「四条畷の戦い」から、兄と共に武蔵守師直の手勢となり、南遠江守、南次郎左衛門尉と南姓になって<太平記>に度々登場する後村上天皇時世貞和5年1349年以降甲斐国鎌倉公方足利基氏支配下になると、観応の擾乱正平一統機に尊氏軍に合流した甲斐南部氏北畠顕信南朝軍の一角から直義派の吉良貞家合流した三戸南部氏南部信長推定されている南部伊予守などがおり、甲斐の南部氏一門観応2年1351年)から足利氏のもとで戦っている様が<太平記>に記され南部為重嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」で、観応2年1351年12月27日今川勢に参じている。観応3年1352年2月25日には同じく南部義重の子とされる南部常陸介武蔵野合戦で、甲斐源氏の衆として、武田氏小笠原氏などとともに笛吹峠軍」の将軍足利尊氏方に参じている。 なお南北朝合一が行われた元中9年/明徳3年1392年)頃、将軍足利義満密命受けた南部守行は、南朝支持する根城南部氏南部政光の元をたずね、降伏勧告行っている。波木井にいた南部政光南北朝合一に際して奥州移住したとされるが、根城南部氏八戸への本拠移転以降総じて甲斐の南部氏一族衰退に向かうことになり、一戸南部氏系とされ、甲斐南部氏嫡流ともみられる南部清政系統南北朝末期の頃から武田氏圧迫され奥州に戻るが内紛滅び惣領根城南部氏から三戸南部氏移ったとされる

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