北朝南部氏と北朝に合流した南部氏
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「南部氏」の記事における「北朝南部氏と北朝に合流した南部氏」の解説
南部宗継は、矢矧の戦い以降「多々良浜の戦い」などで足利尊氏に従い、康永4年(1345年)8月29日には天竜寺供養の随兵となる。その弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏の南部信政が戦没したとの説がある貞和(1348年)4年1月5日の「四条畷の戦い」から、兄と共に高武蔵守師直の手勢となり、南遠江守、南次郎左衛門尉と南姓になって<太平記>に度々登場する。 後村上天皇の時世、貞和5年(1349年)以降甲斐国が鎌倉公方の足利基氏の支配下になると、観応の擾乱の正平一統を機に、尊氏軍に合流した甲斐南部氏、北畠顕信の南朝軍の一角から直義派の吉良貞家に合流した三戸南部氏の南部信長と推定されている南部伊予守などがおり、甲斐の南部氏一門は観応2年(1351年)から足利氏のもとで戦っている様が<太平記>に記され、南部為重の嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」で、観応2年1351年12月27日に今川勢に参じている。観応3年(1352年)2月25日には同じく、南部義重の子とされる南部常陸介は武蔵野合戦で、甲斐源氏の衆として、武田氏、小笠原氏などとともに「笛吹峠軍」の将軍足利尊氏方に参じている。 なお南北朝合一が行われた元中9年/明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の密命を受けた南部守行は、南朝を支持する根城南部氏の南部政光の元をたずね、降伏勧告を行っている。波木井にいた南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住したとされるが、根城南部氏の八戸への本拠移転以降、総じて甲斐の南部氏一族は衰退に向かうことになり、一戸南部氏系とされ、甲斐南部氏の嫡流ともみられる南部清政の系統は南北朝末期の頃から武田氏に圧迫され奥州に戻るが内紛で滅び、惣領は根城南部氏から三戸南部氏へ移ったとされる。
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