北朝方との争いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 北朝方との争いの意味・解説 

北朝方との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:42 UTC 版)

脇屋義則」の記事における「北朝方との争い」の解説

武蔵平一揆乱の終結後、義則は義治行動を共にしなかったようで、家臣守られ辛くも落ち延びた。また新田義宗には遺児・貞方がおり、新田氏継いだ幼少であったため、しばらくは義則が貞方に代わって新田氏残党指揮していたといわれている。 『藤澤山縁起』などによれば元中2年1385年、『鎌倉大草子』では永徳年間出来事とされる3月には、南朝の某宮と新田氏残党浪合戦死し新田義宗の子新田相模入道行啓(義則)とその子刑部少輔だけは奥州落ち延びたという。 後年、貞方と義則は陸奥にあった南朝拠点霊山城入り、また南奥州にて南朝方として勢力を張っていた田村庄司氏を頼った田村氏協力得た新田党は、相馬氏蘆名氏らとの争い勝利し一時周辺北朝方を圧倒した。 しかし、鎌倉府勢力拡大をねらう鎌倉公方足利氏満がこれを看過するはずもなく、応永2年1395年)に氏満は自ら軍勢率いて田村氏討伐向かった田村庄司の乱)。約一年に渡る合戦の末に田村氏敗れ田村則義・清包父子自害し、翌応永3年1396年)に南奥州鎌倉府によって平定された。氏満は田村氏と共に抵抗した新田残党行方厳しく捜索したが、貞方・義則は逃亡しており捕縛することは遂に出来なかった。

※この「北朝方との争い」の解説は、「脇屋義則」の解説の一部です。
「北朝方との争い」を含む「脇屋義則」の記事については、「脇屋義則」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北朝方との争い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北朝方との争い」の関連用語

1
10% |||||

北朝方との争いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北朝方との争いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの脇屋義則 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS