北朝方公家における南朝観とは? わかりやすく解説

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北朝方公家における南朝観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:11 UTC 版)

南北朝正閏論」の記事における「北朝方公家における南朝観」の解説

1392年明徳3年元中9年)閏10月2日南朝後亀山天皇吉野から京都大覚寺入り3日後に三種の神器後小松天皇引き渡された。北朝では、光厳天皇皇統こそ正統なものであるという立場であり、南朝後村上天皇長慶天皇後亀山天皇3代天皇は、謀反人である「南方偽主」に過ぎなかった。天皇でもない後亀山が行幸の体裁入京したことにも反発があった。 さらに、後亀山入京神器引き渡し前提となった明徳の和約は、足利義満首長とする室町幕府南朝方とのあいだでとりかわされたものであり、北朝その内容知らされていなかったか、少なくとも了承はしていなかった。このため後亀山から後小松への譲位意味する譲国の儀」の実施や、後小松の子孫と後亀山の子孫による両統迭立など、取り決め内容明らかになると、強い反発示した。 後小松後亀山との会見拒絶し神器引き渡しも、治承・寿永の乱際し都落ちする平家の手安徳天皇とともに西国移され神器が、平家滅亡安徳死により京に戻ったことを先例として権大納言日野資教蔵人頭日野らを大覚寺派遣して接収することで行われた(『南山御出次第』『御神楽雑記』)。 元号北朝の「明徳」が依然として用いられ続け2年後明徳5年1394年2月23日後亀山天皇太上天皇尊号を贈るときも、北朝は強い反発示し朝廷では異例16日間にわたる議論続いた最終的には、足利義満の強い意向押し切られてようやく実現いたったが、あくまでも「不登極帝」に対するもの、つまり後高倉院のように、正式に天皇即位していない者への尊号授与であることが強調された(『荒暦』)。 後小松天皇は、光厳天皇にはじまる北朝なかでも、後小松祖父である後光厳天皇にはじまる皇統属していた。後光厳正平一統混乱のなかで擁立された天皇であり、その皇位継承正統性不明確であって後光厳の兄である崇光天皇にはじまる皇統(のちの伏見宮家)とのあいだで対抗関係にあった後光厳も、また後小松の父後円融天皇も、自分跡取り息子皇太子にすることもできない状態で、とても旧南朝とのあいだで両統迭立を行う余裕はなかった。また、近衛家洞院家など、多く公家家門家督めぐって北朝方と南朝方とに分裂しており、北朝方の公家たちにとって、南朝方の同族復帰つながりかねない南朝正統性認めることには難しかったなによりも南北朝分裂後南朝は4回にわたって京を占領しているが、いずれも短期間終わり北朝は京と朝廷機構をほぼ完全に掌握していた。それが、北朝方の自負の裏付けとなった。 後小松皇統対す意識は、いくつかの編纂物からも看取することができる。現在も天皇家系譜としてもっとも信頼されている『本朝皇胤紹運録』は、 応永33年1426年)に後小松洞院満季命じて編纂させたものである現存する写本なかでも古い形態属するものでは、次のとおり、後村上長慶後亀山「天皇」ではないことが明示されている。 義良親王 陸奥太守、於南方君主、號後村上天皇云々…… 寛成親王 法名覺理、於南方自立長慶院 熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院小松は、息子称光天皇)に皇位譲ったが、称光は子どものいないまま危篤態となり、父に先立って死去したそのあと、崇光流皇統貞成親王後崇光院)の息子である彦仁王後花園天皇)が後小松猶子となって即位した『本朝皇胤紹運録』では、後花園は後小松息子として記載され、貞成との親子関係抹消されている。皇子ではない者が天皇即位したときは、その父親には天皇あるいは太上天皇称号を贈るのが通例であった尊称天皇追尊天皇)が、後小松は、永享5年1433年)の死去臨み、貞成を太上天皇としないように遺言したといわれる。自らの家系正統性維持しようとする執念それほど強かったのである。 しかし、文安4年1447年)にいたって、貞成に太上天皇尊号贈られた。廷臣万里小路時房は、日記建内記文安4年11月27日条に「凡非帝位尊號後高倉院(但後堀河院嚴父之謂也)、後龜山院三種神器被渡當朝之謂也)両度也、今度之儀、淺自後高倉院、深自後龜山院者歟」と書いている。天皇になっていない人に尊号贈った先例は、後高倉院後亀山院2つあり、3回目となる今回は、後高倉尊号ほどの必然性はないが、後亀山尊号よりはまだ無理がないという認識である。時房は、後小松遺志尊重して後崇光への尊号最後まで反対していた人物であるが、その時房でさえ、後亀山尊号よりは後崇光尊号の方がまだましだと考えていたのである後花園息子である後土御門天皇時代になって壬生晴富北畠親房『神皇正統記』反駁するかたちで『続神皇正統記』を著した。「後村上天皇、諱は義良、第九十六第五十世云々、これは南方偽主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず(中略後嵯峨院正嫡の御流として誠に神皇正統正理歸し、此記(=『神皇正統記』)の名目自然の道にかなひ侍る御事よとふしきにも奇特にも侍るかな」と述べて光厳院」を第96代、「後醍醐院」の重祚を第97代、「光明院」を98代として、「後花園院」まで続けている。この書は『神皇正統記』著者である北畠親房意図歪めるものとして古くから非難され書物であるが、一方後嵯峨天皇以前は兄を嫡流とする「正統理念描きながら、それ以後は弟の亀山天皇系統嫡流とするために「正理理念持ちだして弟を嫡流とする親房に対する鋭い批判含まれている。また、北朝における歴史認識典型的な姿をよくあらわしている。 『本朝皇胤紹運録』は、勅撰皇統譜として前近代通じて重んじられた。後小松表現させた北朝正統論に異議がさしはさまれることはなかった。安永8年1779年)に即位した光格天皇は、天皇権威高めるために努力した人物であるが、彼が「神武二十世」と署名したものが残っている。北朝正統として数えた代数であり、南朝無視されている。朝廷も、歴代天皇も、歴史的に北朝延長しかない以上、北朝正統性を疑う発想出てくるはずがないと言える一方で浩瀚歴史書続史愚抄』を著した柳原紀光は、やはり北朝正統としているが、正平一統のあいだに限って後村上天皇正統天皇認め態度とっている。

※この「北朝方公家における南朝観」の解説は、「南北朝正閏論」の解説の一部です。
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