守貞親王
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守貞親王(もりさだ しんのう、1179年4月6日〈治承3年2月28日〉- 1223年6月14日〈貞応2年5月14日〉)は、日本の鎌倉時代前期の皇族、太上法皇。
- ^ 『増鏡』巻1「おどろの下」には、後白河法皇が守貞親王と尊成親王(後鳥羽天皇)とを呼び、すぐに自分に懐いた尊成を新帝に擁立したとの記述があるが、実際に尊成と共に呼ばれたのは在京していた守貞の異母弟・惟明親王とされており、これについては『増鏡』作者による演出か、あるいは単なる勘違いの可能性も否定できない。
- ^ 基家の妻で陳子の母にあたる持明院宰相局は親王の乳母であるため、陳子は乳母子にあたる。また、基家の母・上西門院一条は上西門院の乳母であったことから、上西門院と親王の猶子関係を取り計らったのも持明院基家と推測される(曽我部愛「後高倉王家の政治的地位」)。
- ^ 『百錬抄』貞応2年5月14日条に「十四日、太上法皇崩御。後高倉院と号し奉る。北白河に葬ると云々」とある。ただし、北白河のどこに葬られたかは現在に至るまで詳らかでなく、陵は現在も未治定のままである(上野竹次郎『山陵』)。
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