定範
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定範(じょうはん、永万元年(1165年) - 元仁2年2月25日(1225年4月4日))は、平安時代末期・鎌倉時代前期の真言宗・三論宗兼学の僧。藤原成範の子で信西の孫、成賢の実弟。通称は民部卿法印。
注釈
- ^ 当時の東大寺は平家による南都焼討後の重源らによる再興事業の最中であり、文治5年7月15日(1189年8月28日)の夜に突然実施された勝賢の東南院院主就任もその側面支援を意図した後白河法皇の人事介入によると言われている。だが、既に真言宗の有力寺院である醍醐寺座主であった勝賢の就任は三論宗を奉じる東南院の僧侶たちの反抗を招き、その収拾案として東大寺で三論宗を学んでいた甥の定範が26歳の若さで院主に抜擢された[1]。
- ^ 元々、道深は高倉上皇の孫にあたる傍流皇族として東南院に入り、定範から東南院の後継者に指名されていた。ところが、承久の乱の結果、道深の弟である茂仁王が後堀河天皇として即位し、父の守貞親王が治天の君として院政を行い(後高倉院)、兄である道深も法親王に叙されて仁和寺門跡になることが決まった。ところが勝賢の時と同様、真言宗の有力寺院である仁和寺門跡に内定した道深の就任は三論宗を奉じる東南院の僧侶たちの反抗を招き、その収拾案として道深に代わる別の後継者を求めることになっていた[3]。
出典
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