定範の「忠勤」と朝時の「遅参」
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「宮崎定範」の記事における「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」の解説
幕府軍と朝廷軍が礪波山で激突したのは6月9日。そして『承久軍物語』等の記載を踏まえるならば、戦いは幕府軍の圧勝に終わったように見える。しかし、北陸道軍が入京を果たしたのは、『承久記』慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日。文献によって相当に幅があるものの、礪波山の戦いからは8日〜15日後ということになる。一方、幕府軍本隊である東海道軍が入京を果たしたのは6月15日。豪雨による増水もあって宇治川の渡河に手こずり、多大な犠牲者を出しながらようやく敵前渡河に成功したのが14日。そして同日夜には京へなだれ込んだという流れ。こうなると、北陸道軍の入京は『承久記』慈光寺本の6月17日という説を採ったとしても戦いには遅れたということになる。これを踏まえ『宮崎定範事歴』ではこんなことを書いている。 朝時が、事穏になりて漸く北陸道を経て京都に入りしは、定範の忠勤に胚胎す。大敵を恐れず殊死して奮闘せし至忠の精神其気魄、実に後世忠臣の鑑にして、英雄骨朽ちて遺烈赫々天下をして欣仰せしむ。 —「第四 礪波山の奮闘」 宮崎定範ら朝廷軍側の必死の抵抗のために北条朝時の入京が遅れたという見方。あたかも関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の「遅参」を彷彿とさせるようなエピソード。
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