定範の「忠勤」と朝時の「遅参」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 定範の「忠勤」と朝時の「遅参」の意味・解説 

定範の「忠勤」と朝時の「遅参」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 00:31 UTC 版)

宮崎定範」の記事における「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」の解説

幕府軍朝廷軍礪波山激突したのは6月9日。そして『承久軍物語』等の記載踏まえるならば、戦い幕府軍圧勝終わったように見える。しかし、北陸道軍が入京果たしたのは、『承久記慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日『武家年代記』では24日文献によって相当に幅があるものの、礪波山戦いからは8日15日ということになる。一方幕府軍本隊である東海道軍が入京果たしたのは6月15日豪雨による増水もあって宇治川渡河に手こずり、多大な犠牲者出しながらようやく敵前渡河成功したのが14日。そして同日夜には京へなだれ込んだという流れ。こうなると、北陸道軍の入京は『承久記慈光寺本の6月17日という説を採ったとしても戦いには遅れたということになる。これを踏まえ宮崎定範事歴』ではこんなことを書いている。 朝時が、事穏になりて漸く北陸道経て京都入りしは、定範忠勤胚胎す。大敵恐れず殊死して奮闘せし至忠精神気魄、実に後世忠臣の鑑にして、英雄朽ちて遺烈赫々天下をして欣仰せしむ。 —「第四 礪波山奮闘宮崎定範朝廷軍側の必死抵抗のために北条朝時入京遅れたという見方あたかも関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の「遅参」を彷彿とさせるようなエピソード

※この「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」の解説は、「宮崎定範」の解説の一部です。
「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」を含む「宮崎定範」の記事については、「宮崎定範」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「定範の「忠勤」と朝時の「遅参」」の関連用語

1
宮崎定範 百科事典
34% |||||

定範の「忠勤」と朝時の「遅参」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



定範の「忠勤」と朝時の「遅参」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宮崎定範 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS