定綱が本庄氏を称したかどうかについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 07:14 UTC 版)
「庄家綱」の記事における「定綱が本庄氏を称したかどうかについて」の解説
まず、系図を作った側には、本庄=本家の庄氏と言った考えは明らかになかったと言う事を説明する。複数ある系図の一つに、小(庄)小太郎頼家と記したものがある。この系図では、その弟を本庄二郎家綱=定綱と記している。家督すら継げなかった定綱が本庄を称している事はおかしく、これは「本庄二郎家次」と書かれた系図と混同してしまった結果の誤伝と考えられる(誤伝に誤伝が重なった結果と考えられる)。また、別の系図では、庄弘高の三男である弘季を、「本庄四郎弘季」と記しているものがある。弘季は四方田や牧西を称しても本庄は称していない。これらの系図からも、系図を書いた側には、本庄を本家の庄氏と意識したり、またそうした意図(意味)をもって記述していなかった事が分かる。こうした考察からも、定綱が本庄を称していたとする系図は誤伝と考えられる。定綱が一時的に本庄を名乗ったとしても、同族間で争いになりかねない事であり、家長が一時的に定綱にまかせたとする記述も系図にはない。
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