宮崎定範
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 06:30 UTC 版)
宮崎 定範(みやざき さだのり、生年不明 - 承久3年(1221年))は、鎌倉時代の越中国の武将。越中宮崎城主。諱は「時政」とも「親成」とも伝わるものの、鎌倉幕府の公式記録とも言うべき『吾妻鏡』では「定範」とされている[注 1]。後鳥羽天皇の朝に出仕して左衛門尉に任ぜられ、承久3年の承久の乱においては北陸道の守備に当った[1]。
注釈
- ^ また大正6年に正五位を追贈された際も「定範」とされていた。
- ^ 『訳註大日本史』では「越後国蒲原郡大蒲原村のこと」とする一方、『越登賀三州志』では「今ノ越後田茂呂木辺」、『宮崎定範事歴』では「歌・外波・市振等海辺の総称にして、今の親不知附近一帯を云へるなり」とした上で「田茂呂木」については「現時の玉之木にして市振浄土に近き一村落なり」としている。
- ^ ただし、北条義時は6月6日付け御教書で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。これを踏まえるならば、北陸道軍の入京が遅れたのは必ずしも定範らの「忠勤」の賜物ではなく、単に北条義時の指示に従っただけということになる。
- ^ また「境関古文書」には寛政元年の記録として「御人塚之義御尋に付、定則〔ママ〕様の御塚と古来伝承仕候、と申上候」との記載があることも示されている。
出典
- 宮崎定範のページへのリンク