乱の経過とは? わかりやすく解説

乱の経過

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応永の乱 (越後国)」の記事における「乱の経過」の解説

この乱の経過は、一貫して守護方として戦った揚北衆中条房資が記している。他に動乱様子伝え史料がないため揚北衆様子中心となる

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乱の経過

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承久の乱」の記事における「乱の経過」の解説

5月19日北条義時北条泰時北条時房大江広元三浦義村安達景盛らによる軍議では、箱根足柄徹底抗戦をする迎撃論が有力であったが、広元逡巡して幕府方団結がくずれる恐れがあるという理由即時京への積極的な出撃主張した政子広元賛成して武蔵の国軍勢到着次第上洛するように命じた。ところが武蔵の国軍勢待っている中に21日には再度慎重論盛り返してきた。広元は「武蔵勢を待つのも上策ではない。泰時一人でも出発されたら、他の勇士達は続々ついて行くでしょう」と述べたので、泰時は早速鎌倉発向した。従うもの、子息時氏以下十八騎に過ぎなかった(『承久記によれば慎重論者は他ならぬ泰時であったとされる上横手雅敬によれば泰時主張通され場合幕府側の団結崩れたことはあり得た。この時の泰時態度は、彼の生涯における最大過誤であったとしている)。5月22日には軍勢東海道東山道北陸道三方から京へ向けて派遣した泰時途中で鎌倉引き返し上皇が自ら兵を率いた場合対処義時尋ねた義時は「君の輿には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。幕府軍道々徐々に兵力増し『吾妻鏡』によれば最終的に19万騎膨れ上がった義時捕らえていた上皇使者宣戦布告書状持たせて京へ追い返す鎌倉武士たちが院宣従い義時討滅されるであろう信じきり、幕府軍出撃予測していなかった後鳥羽上皇京方首脳狼狽したとりあえず、藤原秀康総大将として幕府軍迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国差し向ける京方美濃尾張の国境の尾張川布陣するが、少な兵力分散させる愚を犯していた。6月5日甲斐源氏武田信光小笠原長清率い東山道5万騎は、大井戸渡に布陣する大内惟信高桑大将軍実名不詳)が率い京方2000騎を撃破した。この戦いで戦死した高桑大将軍は、『承久記』によると、幕府軍朝廷軍通して承久の乱での戦死第一とされる藤原秀康三浦胤義支えきれない判断し宇治瀬田で京を守るとして早々に退却決める。6日泰時、時房の率い主力東海道10万騎が尾張川渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻山田重忠のみが杭瀬川奮戦するが、京方総崩れになり、大敗喫した北条朝時率い北陸道軍4万騎5月30日には宮崎定範が守る蒲原難関突破同日夕には宮崎城落として越中国乱入6月9日には砺波山での激戦制して京をめざした当初見込んでいた鎌倉方離反がなく、予想外防禦戦を強いられた京方は、西国武士対す公権力による動員発動追い込まれた。実際兵力動員状況からは京都周辺地域からの兵力確保成功していたものの、鎌倉方進撃予想以上に早く鎌倉方出陣から京までの進軍22日間)、西国武士の中には上皇の命を受けて京方参戦するため上洛する前に勝敗決してしまった事例もあったとみられている。 美濃尾張での敗報京方動揺して洛中大混乱となった後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山登り僧兵協力求めるが、上皇寺社抑制策災いして比叡山延暦寺はこれを拒絶したやむなく京方は残る全兵力をもって宇治瀬田布陣し宇治川幕府軍を防ぐことに決め公家大将軍として参陣した6月13日京方幕府軍衝突した京方宇治川落としのように矢を射かけ必死に防戦する幕府軍豪雨による増水のため川を渡れ攻めあぐねたが、翌14日佐々木信綱先頭として強引に敵前渡河し、多数溺死者を出しながらも敵陣突破成功した京方潰走し、14日夜に幕府軍は京へ雪崩れ込んだ幕府軍寺社京方公家武士の屋敷火を放ち略奪暴行働いた。 『承久記』によると、敗走した京方藤原秀康三浦胤義山田重忠最後一戦をせんと御所駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した後鳥羽上皇幕府軍使者送りこの度の乱は謀臣企てであったとして義時追討院宣取り消し藤原秀康三浦胤義らの逮捕命じ院宣下す上皇見捨てられ藤原秀康三浦胤義山田重忠京方武士東寺立て篭もって抵抗した三浦義村軍勢がこれを攻め藤原秀康山田重忠敗走し三浦胤義奮戦して自害したその後山田重忠落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害藤原秀康河内国において幕府軍捕虜となった

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乱の経過

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壬申の乱」の記事における「乱の経過」の解説

660年代後半、都を近江宮移していた天智天皇同母弟の大海人皇子皇太子立てていたが、天智天皇10年10月17日671年11月23日)、自身皇子である大友皇子太政大臣につけて後継とする意思見せはじめたその後天智天皇は病に臥せる大海人皇子大友皇子皇太子として推挙し、自ら出家申し出て吉野宮現在の奈良県吉野町)に下った。そして天智天皇大海人皇子申し出受け入れたとされる12月3日672年1月7日)、近江宮近隣山科において天智天皇46歳崩御した。大友皇子後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子天武天皇元年6月24日7月24日)に吉野出立した。まず、名張入り駅家焼いたが、名張郡司は出兵拒否した大海人皇子美濃伊勢伊賀熊野その他の豪族の信を得ることに成功した続いて伊賀入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男高市皇子の軍と合流した鈴鹿関合流したとする説もある)。この時、大海人皇子近江朝廷における左右大臣御史大夫による合議のことを述べているが、大海人皇子近江朝廷が既に破綻していたことを把握していたと考えられる。さらに伊勢国でも郡司協力で兵を得ることに成功し美濃向かった美濃では大海人皇子指示受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子東海道東山道諸国から兵を動員することができるようになった美濃入り東国からの兵力集めた大海人皇子7月2日7月31日)に軍勢二手にわけて大和近江二方面に送り出した近江朝廷大友皇子側は、天武元年672年6月26日には、大友皇子群臣方針を諮ったとあるが、近江朝廷構成から考えて、その相手左右大臣と3人の御史大夫のみであり、既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる群臣の中の4人の重臣中臣金以外か)は、諸国使節派遣して農民兵を徴発するという、当時地方支配体制成熟度からは非現実的な方策採択したことになる。結局東国吉備筑紫九州)に兵力動員命じ使者派遣したが、東国使者大海人皇子側の部隊阻まれ吉備筑紫では現地総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率栗隈王外国備えることを理由出兵断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者佐伯男に、断られた時は栗隈王暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子美努王武家王帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力集めることができた。7月2日7月31日)には、近江朝廷主力軍が不破向けて進軍したことが見える。しかし、内紛起こし総帥立場にあった山部王蘇我果安巨勢比等殺され、果安も後に自殺したまた、蘇我氏同族来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破大海人皇子軍に投降しようとして殺されている。 大和では大海人皇子去ったあと、近江朝倭京飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負挙兵してその部隊指揮権奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦繰り広げたこの方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂指揮する美濃からの援軍到着して、吹負の窮境救った近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部足並み乱れから前進滞った大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉用いた村国男依らに率いられ直進し大海人皇子側の部隊は、7月7日8月8日)に息長横河戦端開き以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て進撃続けた7月22日8月20日)に瀬田橋戦い滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した美濃での戦いの前に高市郡進軍の際、「高市社の事代主身狭社に居る生霊神」が神懸り神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器奉れと言いそうすせれば大海人皇子護る神託をなした。翌天武天皇2年673年2月大海人皇子飛鳥浄御原宮造って即位した近江朝廷滅び、再び都は飛鳥奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。 また論功行賞秩序回復のため、新たな制度構築、すなわち服制改定八色の姓制定冠位制度改定などが行われた。天武天皇天智天皇よりもさらに中央集権制進めていったのである

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乱の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:06 UTC 版)

長尾景春の乱」の記事における「乱の経過」の解説

長尾景春挙兵相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎小沢城 (相模国)神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、溝呂木城神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)、そして小机城神奈川県横浜市)の矢野兵庫呼応。その他多く関東国人地侍が景春に味方し侮りがたい勢力となった。これに南武名族豊島氏同心する。鎌倉幕府の有力御家人だった豊島氏室町時代入って、その旧領太田氏奪われていた。石神井城練馬城東京都練馬区)に当主豊島泰経平塚城東京都北区)にその弟の泰明拠り江戸城河越城岩槻城との連絡線断ってしまった。 文明9年3月道灌先手打って兵を動かし溝呂木城小磯城を速攻落とし、さらに小沢城攻めるが、守り堅く景春が援兵送ったため一旦兵を引いた小机城矢野兵庫出陣し河越城攻撃を図るが、太田資忠道灌の甥)と上田上野介がこれを撃退した道灌江戸城指呼勢力を張る豊島氏早期に潰さねばならず、同年4月上杉朝昌三浦高救らの援軍得た道灌は軽兵を発して平塚城城下焼き払い寡兵侮って城を出て追撃してきた泰経・泰明待ち伏せ、僅か50騎で200騎の豊島勢を打ち破り泰明討ち取った江古田・沼袋原の戦い)。道灌敗走した泰経を追って石神井城を囲む。泰経は降服申し出るが、城破却の条件実行されなかったため、道灌は城を攻め落とし、泰経は没落した同年4月、景春は五十子出陣し利根川渡り、顕定と定正の軍を鉢谷原攻めるが撃退される5月道灌は顕定・定正と合流して五十子奪回用土原の戦いで景春を撃破鉢形城を囲むが、成氏が8000騎を率いて出陣したため撤兵余儀なくされた。 道灌は景春の本拠である上野侵攻。塩売原で1カ月対陣するが決着がつかず、同年11月双方撤兵した。翌文明10年1478年正月、成氏が簗田持助通じて山内上杉家家宰長尾忠景和議打診してきた。期待した景春の反乱道灌活躍によって短期間逼塞せしめられたためであり、20年上の戦いに飽いた成氏は幕府との有利な条件での和睦望んでいた。 この和議動き妨害するように、同年正月に泰経が平塚城再挙するが、道灌直ちにこれを陥れ、泰経は敗走し小机城逃れる3月、景春が河越城攻め寄せるが定正と道真がこれを撃退した道灌派遣軍は扇谷家本拠地相模の景春方制圧すべく3月前年攻略失敗した小沢城攻めた相武国境に近い二宮城の大石憲仲が降伏すると、溝呂木城磯部城が降り小沢城落城4月小机城攻略した。城に匿われていた泰経は行方知れずとなり、名族豊島氏歴史上から姿を消す続いて道灌方は相模の景春方落ちた三保追撃、さらに道灌自身村山から合流して甲斐国郡内進軍した公方は景春を切り捨てて和睦指向したことにより、7月に景春の拠る鉢形城攻略し、顕定の居城とした。 武蔵相模固めた道灌は、12月和議反対する成氏の有力武千葉孝胤境根原合戦打ち破った。翌文明11年1479年)に甥の資忠と千葉自胤千葉氏の上方)を房総半島派遣し千葉孝胤籠る臼井城千葉県佐倉市)を攻略させた。この戦いで資忠は戦死する真里谷武田氏海上氏を降し房総半島から反対勢力一掃することに成功した。 成氏との和睦交渉続けられる中、景春はなおも北武秩父郡児玉郡抵抗続けた文明12年1480年6月最後拠点ある日野城埼玉県秩父市)を道灌攻め落とされ、景春は成氏を頼って落ち延びたその後、景春は顕定の養子である上杉憲房切り離し成功して山内上杉家当主擁立し、自らが家宰就任して再起を図る。 文明14年11月27日1483年1月6日)、成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議成立。成氏は幕府から赦免された。また、憲房も顕定の下に戻り、景春は成氏の下で再起期することになる。

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