承久の乱とは? わかりやすく解説

承久の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 00:51 UTC 版)

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権である北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争[2]。鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の、一つの帰結であったとされる[2]。争いの呼称は承久の変、または承久合戦ともいう[3]


注釈

  1. ^ 承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。しかし上横手雅敬は、後鳥羽は武士の臣従を前提とした公武融和路線を進めており、官打ち説は取るに足らぬ俗説とし、幕府と後鳥羽間で、建保6年(1218年)の政子上洛時に、後鳥羽の皇子を実朝の養子とし、将来の将軍として東下させる密約が成立したとした。近年では、後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の官位を進め優遇していたとの見方が強い[8]
  2. ^ この説の弱点として、実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことに説明がつかなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は、現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名して将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図るさらなる保障(河内はこれを幕府機構および北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に、皇族将軍のみならず摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く[9]。また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、さらに後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。
  3. ^ 百錬抄』承久元年7月19日条を根拠とするが、同じ『百錬抄』の承久2年10月18日条に「今日、最勝四天王院上棟」とあり、通常は事始から上棟まで2~3か月であるため、承久2年(1220年)7月19日に事始があったとすれば無理なく理解でき、最勝四天王院の解体・移築は承久2年の7月から10月にかけてと見るべきだとする指摘もある[10]
  4. ^ 慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬揃えとする。
  5. ^ 伊勢伊賀越前美濃丹波摂津
  6. ^ 慈光寺本『承久記』には武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏長沼氏足利氏三浦氏及び北条時房に対して発したとする。他の『承久記』諸本には武田氏、小笠原氏、千葉氏、小山氏、宇都宮氏、三浦氏、葛西氏に対して出されたとする。慈光寺本は成立が一番古い上に『承久記』の中で唯一義時追討院宣の本文を採録されていること、その内容が現存する後鳥羽上皇の他の(義時追討以外の)院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された義時追討の院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとする説がある[15]。一方で実物が現存する義時追討の官宣旨に対して、同時代史料で後鳥羽が義時追討の院宣を発給したと記すものがない上に、義時追討の官宣旨と院宣が両方出されたと記す史料は軍記物を含めて一点もなく、慈光寺本『承久記』は院宣にのみ触れて、実在する官宣旨には触れていない(一方で前田家本『承久記』は現存する官宣旨のみを引用している)ことから、慈光寺本『承久記』は実在する官宣旨から院宣を創作したとする説もある[16][17]
  7. ^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、泰時、時氏、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊
  8. ^ 『吾妻鏡』では、このほか小山朝長結城朝光も大将軍に任じられたとしている[20]。しかし、『承久記』ではこの二人の記載はなく、遠山景朝、諏訪信重、伊具右馬允入道が軍の検見役として加わっている[20]。実際に東山道軍に加わった武士を整理すると、出身地の判明する御家人は、一人を除いて全てが甲斐・信濃の出身者である[21]。『甲府市史』では、このことから、小山朝長・結城朝光が大将軍になっていたとしても軍事指揮官というよりも、軍の監視役のような役割をしていたものと推測している[20]。なお、乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
  9. ^ 越中中世史研究者の久保尚文は、「宮崎求馬氏蔵文書」所収の石黒系図に見える石黒左衛門入道浄覚こそ石黒三郎その人であろうとする。なお、その息子左衛門三郎俊綱は「親に先立って死んだ(先親父死去)」と記されるが、恐らく承久の乱で戦死したのではないかと推測される[23]
  10. ^ 『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載から、砺波山の戦いを6月9日とする説がある[要出典]
  11. ^ この戦いで京方の糟屋有久有長仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
  12. ^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、慈光寺本『承久記』では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決した後となっている。
  13. ^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助伊佐為宗熊谷直国津々見忠季庄忠家安保実光、関政綱といった諸将が犠牲となっている。
  14. ^ その他京方では、藤原朝俊や平保教らの廷臣、多田基綱佐々木高重、大内惟忠、八田知尚小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され自害を図り死去している。
  15. ^ ただし、鎌倉幕府と言えども個々の「皇位」継承には関与できても、治天の君が保持する「皇統」継承の決定には関与できなかったという見方もある。松薗斉は、鎌倉幕府は後白河法皇が定めて源義仲の軍事的要求に対しても変更を拒絶した高倉天皇の子孫に皇統を継承させる方針は維持し、非後鳥羽系の有力皇族(恐らくは宣陽門院覲子内親王か)の意見を聴取した上で即位したことのない守貞親王を治天の君に担ぐ構想を立てたのではないかとしている[29]。鎌倉幕府が皇統の制御を行い得なかったことは鎌倉中期以降に治天の君による皇統決定に異議が出された結果として両統迭立が図られ、その度に鎌倉幕府が仲介に入らざるを得なくなったことからも分かる[30]
  16. ^ 例えば『新版 日本史辞典』[34]には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。
  17. ^ 河内祥輔のように後鳥羽上皇に摂家将軍を廃止する意思があり、それが慈円の『愚管抄』における後鳥羽批判につながっているとする説もある[37]が、河内も承久の乱を倒幕説ではなく親王将軍への交代を目的とする見地に立っているため、倒幕説の観点からの反論ではない。

出典

  1. ^ 「瀬田の唐橋」歴史的建造物 滋賀県 大津市 公益社団法人 日本観光振興協会
  2. ^ a b 松島周一「承久の乱はなぜ起こったか」(峰岸純夫池上裕子編『新視点 日本の歴史4 中世編』(新人物往来社、1993年)
  3. ^ 承久の変(じょうきゅうのへん)とは”. 2020年7月6日閲覧。
  4. ^ 鎌倉幕府と朝廷の対立 - 歴史まとめ.net”. rekishi-memo.net. 2024年4月19日閲覧。
  5. ^ 「清和天皇」は何した人?源氏とのつながりや桓武天皇との関係も | TRANS.Biz”. biz.trans-suite.jp (2022年8月30日). 2024年4月19日閲覧。
  6. ^ 上横手雅敬・元木奏雄・勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論新社、2002年)210頁
  7. ^ 鶴岡八幡宮 公式サイト 境内巡り 8.今宮 写真と解説。鎌倉の神社 小事典 かまくら春秋社 吉田茂穂。鶴岡八幡宮「摂末社」も参照のこと。
  8. ^ a b 「後鳥羽上皇は倒幕を目指さなかった」承久の乱800年 新解釈や資料発見『読売新聞』朝刊2021年5月13日(文化面)
  9. ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年、P285-289・301.
  10. ^ 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年
  11. ^ 佐々木紀一「源頼茂謀反の政治的背景について」(『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第31号、2004年)
  12. ^ a b 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年
  13. ^ 五味文彦「京・鎌倉の王権」(五味文彦編『京・鎌倉の王権』吉川弘文館、2003年)80頁
  14. ^ 承久の乱800年 追討令一転「武士の世」促す”. 日本経済新聞 (2021年4月15日). 2022年5月21日閲覧。
  15. ^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  16. ^ 西田知広「書評 長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』」『日本史研究』651、2016年
  17. ^ a b 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年
  18. ^ a b 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 371.
  19. ^ a b 長村祥知「承久の乱にみる政治構造」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  20. ^ a b c 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 373.
  21. ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 372–373.
  22. ^ 大日本史料』第4編第16冊65-71頁
  23. ^ 久保尚文「巴を支えた石黒氏の末路」『大山の歴史と民俗』26号、2023年、p.7
  24. ^ 野口実「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年)
  25. ^ 野口実「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年)
  26. ^ 上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座 日本歴史5 中世1』岩波書店、1975年)57頁
  27. ^ 石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2 東京大学出版会、1970年)220頁
  28. ^ 貫達人「鎌倉幕府成立時期論」(『青山史学』創刊号、1970年)
  29. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P84-99.
  30. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P54-59.
  31. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』(新人物往来社、2007年)
  32. ^ 坂井法曄 著「日蓮と鎌倉政権ノート」、佐藤博信 編『中世東国の社会構造 中世東国論』 下、岩田書院、2007。ISBN 978-4-87294-473-0 
  33. ^ 安田元久「歴史事象の呼称について : 「承久の乱」「承久の変」を中心に」『学習院大学文学部研究年報』第30号、学習院大学、1983年、p145-167、ISSN 04331117NAID 110007563533 
  34. ^ 朝尾直弘編『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)ISBN 4-04-032000-X
  35. ^ 長村、2015年、pp.110-114、p.131
  36. ^ 曽我部愛「後宮からみた後鳥羽王家の構造」(初出:野口実 編『承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P175-176.
  37. ^ 河内祥輔「朝廷再建運動と朝廷・幕府体制の成立」所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9
  38. ^ 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント文春新書、2019年
  39. ^ 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢中公新書、2021年






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