乱の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 06:35 UTC 版)
「応永の乱 (越後国)」の記事における「乱の終結」の解説
こうして「一国が大乱に及んだ」と記される応永の乱は守護方の敗北に終わった。幕府は邦景討伐令を取り下げ和を結んだ。細川満元も既に死去しており、後ろ盾を失った頼方は守護職を罷免され幸龍丸が新たに越後守護となった。 危機を実力で乗り切った長尾邦景は鎌倉府寄りだった姿勢を改め、急速に幕府に接近していった。 頼方は乱の直後から赦免を申し立てており、永享4年(1432年)に弟の上杉憲実を通じて要請した時には幕府もこれを許すが、邦景はなお不満があったことがうかがえる。頼方はほどなく死去した。 一方、長尾邦景の後ろ盾となっていた畠山満家も永享5年(1433年)に病死する。将軍・足利義教が自分に不信感を抱いているのを感じていた邦景は、翌6年(1434年)に急遽上洛、献上品を持参して将軍足利義教と会見をして信任を得た。 また、越後の国人たちに及ぼした影響も大きなものがあった。乱の過程で中条・黒川氏はそれぞれ惣領・庶子の間で分裂を起こし、同じく三浦和田氏の関沢氏は守護の被官となった。このことから、応永の大乱は越後国人層の惣領制の完全な解体をもたらし、守護の支配が揚北まで及ぶ契機になったものと評価されている。 しかし、宝徳元年(1449年)に、京都と越後を往来して守護権力の回復を図ろうとしていた房朝が急逝する と、越後は再び不安定な状況を迎えることになった。
※この「乱の終結」の解説は、「応永の乱 (越後国)」の解説の一部です。
「乱の終結」を含む「応永の乱 (越後国)」の記事については、「応永の乱 (越後国)」の概要を参照ください。
- 乱の終結のページへのリンク