佐伯男とは? わかりやすく解説

佐伯男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/31 06:02 UTC 版)

佐伯 男(さえき の おとこ[1])は、飛鳥時代の人物。のち宿禰官位従五位上大倭守

672年壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため筑紫国に遣わされたが任務に失敗した。

経歴

天武天皇元年(672年)6月に大海人皇子(のち天武天皇)の挙兵を知った近江大津宮朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための兵士を徴発した。このとき、佐伯男は筑紫大宰栗隈王のもとに遣わされた。出兵を命じたものの、栗隈王が以前大海人皇子に従っていたことから、彼もまた背くかもしれないと大友皇子は疑っていた。「従わない様子があったら殺せ」というのが、佐伯男が受けた指示であった。

符(命令書)を受けとった栗隈王は、出兵を断る。筑紫国の務めは国外への備えであり、守りを空けたときに変事があったら国が傾くというのが、栗隈王が述べた理由であった。このとき、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った[2]

帰還後の活動については記録がないが、乱の後に赦されたと考えられる[要出典]

天武天皇13年(684年八色の姓の制定により、佐伯氏から宿禰改姓しており、男も同時に改姓したと想定される。

文武朝末の慶雲2年(706年従五位下に昇叙する。元明朝では和銅元年(708年大倭守に任ぜられ、翌和銅2年(709年)従五位上に昇進している。

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 旧仮名遣いでの読みは「さへきのをとこ」
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇元年6月26日条

参考文献





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