はっしき‐の‐かばね【八色の▽姓】
読み方:はっしきのかばね
やくさ‐の‐かばね【八▽色の▽姓】
八色の姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 17:19 UTC 版)
八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が天武天皇13年(684年)に新たに制定した、八つの姓(カバネ)。
- ^ a b c 竹内理三 1950, p. 27.
- ^ 竹内理三 1950, p. 35.
- ^ 竹内理三 1950, p. 35-36.
- ^ 竹内理三 1950, p. 36-38.
- ^ 竹内理三 1950, p. 37-38.
- ^ 竹内理三 1950, p. 37.
- ^ 竹内理三 1950, p. 38.
- ^ 川上富吉「長忌寸意吉麻呂伝考」『大妻女子大学文学部紀要』第3巻、大妻女子大学文学部、1971年。
- ^ 仁藤敦史『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』中央公論新社〈中公新書 2648〉、2021年6月21日、148頁。ASIN B09FL5FSV3。ISBN 978-4121026484。
- ^ 竹内理三 1950, p. 29-32.
- ^ 竹内理三 1950, p. 30.
八色の姓(やくさのかばね)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:24 UTC 版)
「彩雲国物語の用語」の記事における「八色の姓(やくさのかばね)」の解説
八色の姓氏とも。彩八家の姓のこと。約600年前、時の王がこの豪族達にそれぞれが治める州の名を姓として冠する様に命じ、それ以外の家系にはこの姓を名乗ることを禁じた。改める前の姓は蒼氏のみ残っていたが、時代が降るとこれも旺氏に変えられた。
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八色の姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:06 UTC 版)
天武天皇13年(684年)、八色の姓(やくさのかばね)の制定が行われた。これは「『氏姓』変革の歴史に於いて画期的な事件として注目されている。」(阿部)この時の詔では旧来の諸氏の族姓を改めて、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種のカバネを与えることが宣告された。 この族姓改革の理由、意図については様々に論じられており、大化の改新以来の対氏族政策の最終的な処置として、古い氏姓制度を新しい体制の中に取り込むために行われた、または古い姓に付随した政治的特権を整理し新しい体制を構築するためのものであったなどの見解がある。また、上記のような対氏族政策とは別に、大化の改新以降の政治改革と関係があり、新たに整備された官僚制が、族姓制度の改革をも要求したのではないかという見解もある。 いずれにせよ、八色の姓の制定は単独で実施された孤立した政策ではなく、制定の数年前から「造」「値」姓の氏、または個人に次々と「連」姓が与えられていたことが『日本書紀』に記録されている。これもまた、天武朝期における官僚制の強化と関係があるとも考えられ、臣・連・伴造・国造、あるいは品部といった古い政治組織が改変されて律令官へと組み替えられる中で、この変化に合わせてカバネも変更されたと見られる。また、官の位階の昇進について職務精励を評価して昇進させるという規定が存在したことで、旧来「臣」「連」姓を持つ氏に独占されてきた上位の冠位に登る「造」「直」出身者が登場した。この情勢が天武朝期に「造」「直」姓から「連」姓への改姓が繰り返された理由であるかもしれない。実際にはこのような大きな人事制度の変更とそれに伴う急激な昇進は紛争の種であったらしく、天武11年(682年)には「族姓が定まらずば考選の色にあらず」として人事査定に行状のみならず族姓も勘案することが明確化された。 このような中で天武13年(684年)の八色の姓の制定は行われ、翌天武14年には位階制の拡張が行われた。八色の姓で定められた姓のうち、実際に賜姓が行われたのは基本的に真人、宿禰、朝臣、忌寸の4つだけであった。なぜ上位の4姓以外が運用されなかったのかについて記録は残されていない。八色の姓の制定は恐らくは官人の任用・昇進において族姓を考慮することが明確化されたことによって、族姓の等級をはっきりさせる必要が生じたことから、カバネを整理し改めたものと考えられる。また、それと併せて皇親の地位を明確化する意図があったとも言われている。天武朝期に真人姓が与えられた氏のうち、出自がわかっているものは継体天皇の近親またはそれ以後の王裔である。 阿部武彦は八色の姓の制定以降、奈良時代を通じて改姓の実例はほとんどが5位以下の冠位にしか就くことができない低い位階からの昇格であることに注目し、忌寸以上の姓を与えることは小錦(律令制の規定では5位)以上の冠位を得ることができる氏であることを定めるものであったことに重点が置かれており、これより上位の姓を得ることに人事上の意味があったためであるとしている。昇進に一定以上のカバネが必要であったことから官人たちは競って改姓を願い出るようになった。八色の姓が制定された天武朝以降、六国史に記録された改姓は1200件にも及ぶ。この時代の改賜姓は上述のように5位以下の低い位階の官人を中心としており、また個人およびその近親といった小さな単位で行われていることが特徴である。このような事実は、八色の姓制定時点で名門とされた氏には当初から5位以上の冠位に昇進可能なカバネが与えられていたことを予想させ、また賜姓の単位が個人レベルまで細分化していることはカバネの上昇が官人としての活躍と関連していたことを示す。 こうして、古代の政治組織の確立と密接に関わっていたカバネは、奈良時代に入ると律令体制の確立と共に整備された官僚制と結びつくことになる。奈良時代を通じて頻繁に行われた改姓は時期によって異なる特徴がある。阿部武彦によれば概ね4期に区分することが出来、それぞれの時代の特徴は以下のようなものである。 天武天皇から元正天皇時代:八色の姓の制定時、基本的な方針としては遠い皇親に朝臣、神別氏族には宿禰、といったように氏族の出自を重視して上位のカバネが授与された。しかし、この時期はカバネの変更は少なく無姓の官人に臣・連・君・造と言った古いカバネが与えられている。なぜ古い姓の授与が行われいたのかは不明である。 聖武天皇から称徳天皇時代:多数の渡来人(帰化人)にカバネが与えられていることに特徴がある。また、聖武天皇の時代には忌寸・連の賜姓が中心であるのに対し、時代が進むほど宿禰や朝臣など上級のカバネが与えられるようになっていった。渡来人(帰化人)への賜姓は中下層の官人における彼らの重要性の増大によると考えられるが、これによって朝臣・宿禰といったカバネで元来考慮されていた氏族の出自の基準が形骸化し、最終的には完全に失われた。『新撰姓氏録』ではこの世相について序文で『諸蕃にゆるして願にまかせて之を賜ふ。遂に前姓後姓をして文字これに同じく、蕃俗倭俗相疑わしむ」と描写している。 光仁天皇から桓武天皇の時代:カバネ賜与の整理期であり、賜姓件数が減少するとともに諸氏の出自を調査し、石上朝臣を物部朝臣に服するなど、氏名の復古的な動きがみられた。氏名の変更・改姓に祖先の出自を重視するようになっている点において第2期から大きく変化している。 平城天皇以降:仁明天皇の時代頃までに朝臣・宿禰以外のカバネが全く賜姓の対象とならなくなる。これは上級の官が特定の氏族に独占される傾向が強くなっていったことで、冠位の昇進において有力な氏との関係性の方が重要となり、カバネの高低に実質的な意味がなくなっていったことと関係していると考えられる。カバネに比べ氏名の重要性が増したことで、各氏が昇進が見込める(本宗家の)氏名に変更を願い出るケースが目立つようになる(引田朝臣や狛朝臣から阿倍朝臣への変更など)。最終的に上級官職のほとんどが藤原氏に独占されるに至って賜姓の記録は急速に減少し、光孝天皇代にはわずか8件(全て朝臣)にまで減少する。 このように、元々ヤマト王権との政治的関係性の表現として登場したカバネは、天武朝における皇親政治の進展と律令制・官僚制の整備と共に八色の姓という形で再編され、官人たちは人事上の必要性から上位のカバネを競って求めるようになったものと見られる。再編されたカバネは本質的に皇室に奉仕する官僚に天皇から与えられるものであったが、その重要性は官位が特定の氏に独占されていくと共に失われていった。そして最終的に藤原氏が政権を掌握すると共に、カバネの高低はその実質的な意義を喪失した。
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「八色の姓」の例文・使い方・用例・文例
- 稲置という,八色の姓のうちの姓
八色の姓と同じ種類の言葉
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