乱の顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 16:13 UTC 版)
この事件により日朝の国交は断絶状態となった。これは宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許可を受けている者)に対しても同様であった。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は、折り合いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。 これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開かれるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。 宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。
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