乱れた晩年と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)
徳治3年(1308年)8月4日には将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された。また幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜・安達時顕を登用し彼ら2人を高時を補佐する両翼として備えようとした。延慶2年(1309年)1月には高時の元服式を行っている。 だが幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子2人に先立たれた貞時の政治は次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている(『平政連諫草』)。 応長元年(1311年)9月22日には高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去し、嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど、最晩年の貞時政権下では世代交代と得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった。 貞時は師時の後を追うように1ヵ月後の10月26日(1311年12月6日)に死去。享年41(満39歳没)。死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人を枕元に呼び寄せ、高時を補佐し幕府を盛り立ててゆくよう命じたという。廟所は鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺の塔頭佛日庵。木像も納められている。 高時は僅か9歳で得宗家の家督を継ぐが、既に貞時の晩年に得宗の地位は形骸化しており、政治的な主導権を発揮する機会もない形式的な存在のまま、元弘3年(1333年)の元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡の時を迎えることになった。
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