大和源氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 10:16 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動大和源氏 | |
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本姓 | 源朝臣 |
家祖 | 源頼親 |
種別 | 皇別 |
出身地 | 摂津国川辺郡 |
主な根拠地 | 大和国 |
著名な人物 |
源頼親 信実 源親治 江川英龍 |
支流、分家 |
宇野氏(武家) 豊島氏(武家) 大和越智氏(武家) 陸奥石川氏(武家) 太田氏(武家) 土方氏(武家) 隈部氏(武家) 高木氏(武家) 伊予大森氏(武家)など仮冒も含め、数多くの系統あり。 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
大和源氏(やまとげんじ)は、清和源氏の一流であり、源満仲の次男の頼親に始まる。
勃興から平安末期まで
頼親は大和国の国司となり同国に勢力を拡大、その過程で興福寺などの南都(奈良の寺院)勢力と武力衝突を起こして流罪となった。しかしその子孫は大和一円に広がり、引き続き南都勢力との抗争を繰り返しながら土着傾向を強めていった。中には頼親から五代後の僧信実のように、宿敵であるはずの興福寺の上座となって南都勢力と同化し、同族の大和源氏と抗争する者までも出現した。
信実の好敵手であった源親治(宇野親治、同じく頼親から五代後)は、保元元年(1156年)の保元の乱において崇徳上皇方についたため捕虜となるが、南都勢力の伸張を牽制したい後白河天皇の深謀遠慮により、罪を赦されて帰郷を果たしている。降って治承4年(1180年)に源頼政が以仁王と語らって挙兵した際には、決起を促す諸国の源氏の一群の中に親治とその子達の名前が見え、なおも国内に一勢力を保っていたことが窺える。
その後の動向
しかし治承・寿永の乱において目立った活躍がなかった大和源氏は、これ以降は地方豪族の域を出ることができず、中世を通じて次第に纏まりを失い、諸国に拡散していった。上述の親治にはじまる大和国の宇野氏(この子孫に江川英龍がいる)をはじめ、織田信雄に仕えた土方雄久の土方氏、肥後国の隈部氏、陸奥国の石川氏、三河国の高木氏、楠木正成を討ち取ったとされる伊予の大森彦七の伊予大森氏などが大和源氏の末裔を称している。
系譜
頼親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼成 | 頼房 | 頼遠 | 頼基 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼俊 | 有光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼風 | 頼治 | 頼景 | 光平 | 元光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼安 | 親弘 | 惟風 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信実 | 親治 | 頼明 | 頼章 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
玄実 | 有治 | 頼遠 | 頼元 | 頼康 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
実遍 | 光治 | 頼資 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
住蓮 | 義治 | 頼基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連
大和源氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:32 UTC 版)
大和源氏の源流である源頼親は、藤原道長に仕える侍で、11世紀はじめに大和守に任ぜられた。だが、当時の大和国の大和平野(奈良盆地)北部は興福寺の勢力下にあり、頼親の拠点は大和平野南部が中心となった。国府は高市郡内にあったとされる。一方で大和国の南部といっても吉野川(紀ノ川)より南は修験道の根本であったため、頼親の勢力は高市郡から宇智郡の範囲に限られた。頼親は高市郡と宇智郡に私領を設けている(『前田本右記』)が、この高市郡越智庄と宇智郡宇野庄がのちの越智氏と宇野氏の起源となる。なお、源頼親と子頼房(加賀守)は興福寺と争い頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に流されている(『扶桑略記』)。 頼房の子、頼俊(陸奥守)は、摂政家の要職にあり延久蝦夷合戦で活躍した。頼俊は栄山寺領を侵し、その所領を宇智郡から葛上郡に拡げ、その子である頼治は、大和国に居住し宇智郡を中心に一族の土着がはじまった。さらに頼治の孫、親治(名乗りは「宇野七郎親治」)は、保元の乱の顛末を描いた軍記物語『保元物語』に登場する。 源頼俊の外孫で、源師任(父、源師時)という武士が宇智郡に所領を有していたが、師任は頼俊から譲られた所領を興福寺に寄進した。しかし、興福寺の課役が厳しく、改めて金峯山寺に寄進するという二重寄進の結果になった。この頃、興福寺と金峯山寺は争っており、憤慨した興福寺僧兵が、金峯山寺を攻めた。師任は金峯山を下り、宇智郡に潜伏するが、これを知った金峯山寺衆徒は、師任を捕らえようと、1146年(久安2年)に宇智郡に乱入し、郡司藤原頼金と戦ったとされる(『本朝世紀』)。この後の動静は明らかではないが、金峯山寺勢力が宇智郡に浸透し、栄山寺領をも横領していた例証が残っている(『栄山寺文書』)。 1180年(治承4年)に以仁王と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、準備不足のために露見し、追討を受け以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された(詳しくは以仁王の挙兵を参照)。この時、金峯山寺は源氏に味方している。また親治の子である宇野氏の宇野太郎有治、次郎清治、三郎義治、四郎業治らが源氏に味方した(『源平盛衰記』)。敗れた頼政一党の一部は吉野に逃れたが、平清盛による頼政一党の捜索はきびしく、相次いで捕らえられている。 なお、宇野氏は宇野頼基(親治の四男)の頃に最盛期を迎えるが、宇野氏は一族同士の争いもあり鎌倉時代の半ばには衰退する。また、この後も金峯山寺と宇野庄との関係は複雑に続いていくことになる。
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