以仁王と源頼政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)
以仁王像 源頼政像 微妙な立場にあったのが後白河法皇の第三皇子・以仁王であった。彼は学芸に優れた才人だったが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下も受けられずにいた。それでも、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)を後ろ盾に、彼女の猶子となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。だが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。 源頼政は源頼光の系譜に連なる摂津源氏で、畿内近国に基盤を持つ京武士として大内守護に任じられていた。保元の乱では勝者の天皇方につき、平治の乱では主美福門院の意向を汲みながら形勢を観望して藤原信頼に与しなかった。摂津源氏の頼政はその後も地味ながら軍事貴族の一員として過ごしていた。 平氏全盛の中、源氏の頼政は地味な立場であり続けたが、治承2年(1178年)に清盛の推挙により従三位に昇進した。『平家物語』では、不遇の身を嘆く和歌を詠み、それを知った清盛が、「頼政を忘れていた」と推挙したことになっている。九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているように、平氏以外の武士が公卿(従三位)となるのは異例であった。 頼政はこの時70代半ばを超えた老齢で、念願の三位叙位が叶った翌年には出家して、家督を嫡男の仲綱に譲った。
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