頼朝の挙兵とは? わかりやすく解説

頼朝の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:13 UTC 版)

大庭景親」の記事における「頼朝の挙兵」の解説

治承4年1180年5月以仁王と源頼政平氏打倒兵を挙げると、足利忠綱とともに追討の任にあたり、これを破った以仁王の挙兵)。その後在京していた景親は平家の家人の上総介・伊藤忠清呼ばれ駿河国長田入道から北条時政頼朝の舅)と比企掃部允頼朝乳母の夫でこの時には死去している)が伊豆国流人頼朝擁立して謀反企てているとの密書があったと知らされる実際に頼朝挙兵決意し内々準備進めていた。頼朝同心する者の中には兄の景義もいた。 8月2日東国所領帰国した景親は、9日佐々木秀義自邸招いて頼朝謀反疑いあることを相談した。秀義の息子たち(定綱、経高、盛綱高綱)は既に頼朝と意を通じており、驚愕した秀義は直ち頼朝使者送り告げた。この報告受けて頼朝挙兵を急ぐことを決める。17日頼朝挙兵し伊豆目代山木兼隆の館を襲撃し殺害頼朝300余騎をもって土肥実平所領のある相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。 景親は頼朝迎え撃つべく弟の俣野景久をはじめ渋谷重国糟屋盛久熊谷直実平氏方3,000余騎を集めて石橋山神奈川県小田原市)で頼朝の軍と対峙した。23日三浦一族軍勢頼朝合流すべく迫っているのを知った景親は大雨の上にすでに日が暮れているにもかかわらず攻撃しかけた。数に勝る大庭勢は圧勝し寡兵頼朝軍は壊滅して山中逃げ込んだ石橋山の戦い)。 景親は山中くまなく捜索させるが、梶原景時頼朝所在知りながら景親らを別の山峯へ導いたために取り逃がしてしまった。頼朝土肥実平の手引きで船を仕立て安房国逃れる9月2日頼朝挙兵知らせる景親の早馬平清盛のいる福原到着し追討軍の派遣決められるが、編成遅々として進まなかった。その間に、頼朝安房国再挙して房総半島進軍し千葉常胤上総広常がこれに加わり武蔵国下総国との国境隅田川達した9月末には2万以上になっていた。 10月には豊島清元葛西清重足立遠元河越重頼江戸重長畠山重忠東国武士続々頼朝に参陣して数万騎に膨れ上がり、景親には抵抗する術がなくなってしまった。10月6日頼朝抵抗を受けることなく鎌倉入った平維盛総大将とする追討軍の進発は遅れに遅れ、諸国駆武者をかき集めながら進軍するが、西国飢饉のために士気低下していた。10月13日にようやく駿河国入ったが、その直後現地平氏方の駿河目代橘遠茂甲斐源氏撃破されてしまう(鉢田の戦い)。 18日、景親は平氏軍合流するために1,000騎を率いて出発するが、西方はすでに敵方固められていたため、やむなく兵を解いて河村山へ逃げ去った20日富士川源氏大軍対峙していた平維盛平氏軍戦わずして敗走してしまう(富士川の戦い)。 23日、景親は遂に降伏し上総広常預けられる26日に固瀬川境川神奈川県藤沢市片瀬)で処刑され梟首された。 頼朝の挙兵に早くから参じていた兄の景義は御家人列し鎌倉幕府仕えて長寿全うしている。

※この「頼朝の挙兵」の解説は、「大庭景親」の解説の一部です。
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