頼朝の厚遇とは? わかりやすく解説

頼朝の厚遇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)

平頼盛」の記事における「頼朝の厚遇」の解説

玉葉11月6日条には、頼盛がすでに鎌倉到着したという情報記されている。頼盛は唐綾直垂着て立烏帽子被り息子たち郎等2人従え刀剣持たない姿だった。頼朝白糸水干着て立烏帽子被り郎等50人が背後群居していた。頼朝は、居館から一日行程にある相模国国府を頼盛の宿所充て相模目代世話役にしたという。頼朝は頼盛を「如父(父の如くモテナシ」た。それは旧恩だけでなく後白河院八条院と太いパイプを持つ頼盛の参入に、心強さ感じていたことも理由一つとして考えられる頼朝朝廷との交渉幕府機構整備のために、京都からの人材求めていた。頼朝は頼盛から京都深刻な食糧不足聞くと、自身の上洛を中止して弟の源義経中原親能代官として都へ送った寿永3年1184年)になると義仲滅ぼされ一ノ谷の戦い平氏屋島撤退したことにより、京都頼朝勢力下に入ったその後の頼盛の動向は『玉葉』によると、八条院より九条兼実に頼盛の申し状伝えられ3月7日条)、頼盛の後見侍清業が兼実のことを後白河奏し4月1日条)、清業が源雅頼に「頼朝は兼実を摂政推挙する意向である」と語っている(4月7日条)。これらの記事から推察すると頼盛は、頼朝のために八条院や後白河院働きかけて兼実を摂政にするよう工作していたと考えられる4月頼朝は頼盛に荘園33所を返還しているが、この荘園返還頼朝による本領安堵であり、頼盛はこれによって鎌倉との主従関係組み込まれたとする見方もある。 その後、頼盛は一旦帰京していたらしく、5月3日改め亡命としてではなく正式に関東下向した。この時、頼盛は宗清にも同行命じるが、宗清固辞した5月21日頼朝高階泰経書状送って、頼盛と子息本官還任源範頼源広綱平賀義信国司任官要請した6月1日頼朝は頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。宴には御家人の中から「京都馴るるの輩」が集められ引出物として、金作一太刀砂金一袋・鞍馬十疋が贈られた。頼朝宗清のためにも引出物用意していたが、姿を見せないので残念がった。頼盛は頼朝に、宗清病気のため到着が遅れると伝えていた。6月5日、頼盛は帰京し権大納言還任する。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった

※この「頼朝の厚遇」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「頼朝の厚遇」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。

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