頼朝の厚遇
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『玉葉』11月6日条には、頼盛がすでに鎌倉に到着したという情報が記されている。頼盛は唐綾の直垂を着て立烏帽子を被り、息子たちと郎等2人を従え、刀剣を持たない姿だった。頼朝は白糸葛の水干を着て立烏帽子を被り、郎等50人が背後に群居していた。頼朝は、居館から一日の行程にある相模国の国府を頼盛の宿所に充て、相模の目代を世話役にしたという。頼朝は頼盛を「如父(父の如く)モテナシ」た。それは旧恩だけでなく後白河院や八条院と太いパイプを持つ頼盛の参入に、心強さを感じていたことも理由の一つとして考えられる。頼朝は朝廷との交渉や幕府機構の整備のために、京都からの人材を求めていた。頼朝は頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと、自身の上洛を中止して弟の源義経と中原親能を代官として都へ送った。 寿永3年(1184年)になると義仲が滅ぼされ、一ノ谷の戦いで平氏も屋島に撤退したことにより、京都は頼朝の勢力下に入った。その後の頼盛の動向は『玉葉』によると、八条院より九条兼実に頼盛の申し状が伝えられ(3月7日条)、頼盛の後見侍清業が兼実のことを後白河に奏し(4月1日条)、清業が源雅頼に「頼朝は兼実を摂政に推挙する意向である」と語っている(4月7日条)。これらの記事から推察すると頼盛は、頼朝のために八条院や後白河院に働きかけて兼実を摂政にするよう工作していたと考えられる。4月、頼朝は頼盛に荘園33ヶ所を返還しているが、この荘園の返還は頼朝による本領安堵であり、頼盛はこれによって鎌倉との主従関係に組み込まれたとする見方もある。 その後、頼盛は一旦帰京していたらしく、5月3日に改めて亡命としてではなく正式に関東に下向した。この時、頼盛は宗清にも同行を命じるが、宗清は固辞した。5月21日、頼朝は高階泰経に書状を送って、頼盛と子息の本官還任と源範頼・源広綱・平賀義信の国司任官を要請した。6月1日、頼朝は頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。宴には御家人の中から「京都に馴るるの輩」が集められ、引出物として、金作剣一太刀・砂金一袋・鞍馬十疋が贈られた。頼朝は宗清のためにも引出物を用意していたが、姿を見せないので残念がった。頼盛は頼朝に、宗清は病気のため到着が遅れると伝えていた。6月5日、頼盛は帰京して権大納言に還任する。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった。
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