頼朝の法華堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
寺を建てられるような最上級、将軍家や執権・連署クラスはやぐらではなくその寺に葬られる。例えば頼朝は大倉御所の北の山の中腹に持仏堂を持ち、そこが死後法華堂となる。頼朝が死んだ年の記事は『吾妻鏡』には無いが、一周期の記事は正治2年(1200年)1月13日条にあり、法華堂で栄西を導師として執り行われている。この頼朝法華堂は現在の国の史跡で法華堂跡とされる伝頼朝の墓の石段下ではなく、頼朝の墓のある石段上の平場とされる。そこが法華堂跡であり、頼朝の墓所であったことは『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)の新御所を何処にするかについての陰陽師等の議論の記録で判る。
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