頼朝への臣従
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治承4年(1180年)8月17日、頼朝が伊豆国にて挙兵。同年8月26日、重頼は平家方に付いた同じ秩父一族である畠山重忠の要請に応じ、江戸重長ら武蔵国の武士団数千騎を率いて衣笠城を攻め、三浦義明を討ち取る(衣笠城合戦)。しかし10月4日、勢力を回復して再挙した頼朝が武蔵国に入ると、畠山重忠・江戸重長らと共に傘下に入る。以降、御家人として重く用いられる。 寿永元年(1182年)8月12日、頼朝の嫡男・源頼家が誕生。重頼の妻が産所である比企能員の屋敷に呼ばれ、乳母として最初の乳を含ませる儀式を行う。弟の師岡重経が鳴弦役を担った。 寿永3年(1184年)1月20日、源範頼・源義経を頼朝代官とする源義仲追討軍が京都に向かう。重頼は嫡男・重房と共に追討軍に参加。都に入り、範頼・義経・重頼・重房他数騎で後白河法皇が幽閉されていた六条殿に駆けつけ、仙洞御所の警護にあたる。8月6日、一ノ谷の戦い後に義経が鎌倉の許可無く朝廷から検非違使の任官を受け、頼朝の怒りを買う。この時、重頼の弟・重経も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から罵倒されている。9月14日、頼朝の命により、娘(郷御前)が京に上って義経に嫁ぎ、舅となる。 文治元年(1185年)、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。11月12日、義経の縁戚であることを理由に、所領である伊勢国香取五カ郷を没収されて大井実春に給与され、他は重頼老母の預かりとなる。重頼の娘婿である下河辺政義も連座して所領を没収された。 この後、重頼は嫡男重房と共に誅殺され、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移された。
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頼朝への臣従
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畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えた。 治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵した。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)。 9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年(1181年)7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能がいまだに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられ、更に平家郎党期に惣領の地位を占めていた河越氏は更に冷遇されて後に誅殺されるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もある。
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